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30年日本史00845【建武期】結城親光戦死

 大渡と山崎で新田軍が敗れたと聞き、朝廷は慌てふためきます。
 建武3(1336)年1月10日、朝廷の面々は京を明け渡して近江に逃げることとなり、後醍醐天皇も急いで比叡山に避難することとなりました。しかし天皇の護衛に割ける人員がおらず、天皇はなんと徒歩で比叡山に登ることになりました。後伏見法皇、花園法皇、光厳上皇といった持明院統の面々も比叡山に連れて行かれてしまいました。
 その日の夜、足利軍が都になだれ込んで来ました。一旦は坂本(滋賀県大津市)まで逃れていた名和長年は、
「やはり一度も戦わずして京を明け渡すわけにいかぬ。内裏をお守りせねば」
と言って京に戻ります。もはや無人となった内裏ではありますが、天皇の帰るべき場所を失うわけにいかないと考えたのでしょう。
 しかし、既に京は足利軍数万騎が占拠しており、名和軍300騎はたちまち囲まれてしまいました。名和長年は敵軍の囲みを打ち破ること17回、奮戦して内裏の近くまで進んでいきましたが、そこで内裏が敵にいいように荒らされているのを目撃します。御簾が引きちぎられ、襖が破られ、功臣たちの肖像画がそこかしこに散らばっていました。名和長年は涙を流して坂本へと引き返しました。
 その後、足利軍が周辺家屋に放った火が風に煽られ、内裏もまた炎上してしまいました。
 翌1月11日に、征東将軍尊氏が晴れて都入りを果たしました。
 大覚寺統の後醍醐天皇と対立している尊氏としては、持明院統の皇族たちに接近することで、皇室の了解の上で政務を執りたいところですが、持明院統の一同も比叡山に連れて行かれてしまい、どうにもしようがありません。悩んでいたところに、後醍醐天皇側近の一人、結城親光が都に留まっているとの知らせが入ります。
 結城親光といえば、後醍醐天皇に仕える「三木一草」の一角をなす忠臣です。親光は、兵力で戦っても勝ち目がないことから、尊氏に接近してこれを暗殺できないかと考え、あえて都に留まっていたのです。
 親光から「降伏したいので将軍に面会したい」との連絡を受け、尊氏は
「どうせ本心からの降伏ではなく、私を欺こうとしているのであろう。しかし話だけは聞いてみよう」
と言って、大友貞載(おおともさだのり:?~1336)を派遣しました。
 大友貞載は結城親光と面会し、「降伏するのになぜ鎧を脱がないのか」と高圧的に迫ります。これを聞いた親光は「企てを見破られた」と思い、太刀をもって貞載に斬りつけました。慌てた大友方の兵が親光を取り囲みますが、親光とその郎党たちは大友方を14人も討った上で壮絶な戦死を遂げました。
 大友貞載もまたこの傷がもとで死去しました。結城親光は最後の最後に尊氏に一矢を報いたのです。

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