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30年日本史00910【南北朝最初期】後醍醐天皇の皇子たち

 登場人物が多すぎて頭がこんがらがって来たことでしょう。恒良・成良が毒殺されたところで、後醍醐天皇の皇子8名をまとめて紹介しておきましょう。
〇 長男・尊良(たかよし:1306?~1337)
 尊良は鎌倉幕府打倒計画に関わって土佐に配流されるなど、かなり早い段階から後醍醐と行動を共にしていた人物です。尊氏が初めて朝敵となった際、新田義貞とともに出陣しましたが、その後、金ヶ崎城の戦いで自害しました。
〇 次男・世良(よよし:?~1330)
 世良は鎌倉幕府打倒前に病没した人物であり、本稿には登場していません。
〇 三男・護良(もりよし:1308~1335)
 護良は登場回数も多く、十分にキャラが立っていましたね。豪快な性格の武闘派で、楠木正成らとともに倒幕運動で活躍しました。建武の新政下では尊氏を早い段階から危険視しその排除を図りましたが、阿野廉子と組んだ足利家に陥れられ、鎌倉で直義に斬られました。
〇 四男・宗良(むねよし:1311~1385)
 当初は尊澄法親王と呼ばれており、宗良は還俗後の名です。鎌倉幕府打倒計画に参加して讃岐に配流されましたが、その後倒幕運動で活躍しました。現時点では北畠親房とともに伊勢に下向しています。長命で、今後も活躍します。
〇 五男・恒良(つねよし:1325~1337?)
 恒良は後醍醐から譲位を受け、新田義貞とともに越前に落ち延びたものの、その後後醍醐から即位を否定されてしまった哀れな人物です。越前国府の戦い後に捕らえられ、太平記によると足利家に毒殺されたとのことです。
〇 六男・成良(なりよし:1326~1337?)
 成良は非常に複雑な人生を送っています。足利直義に連れられて鎌倉に下向させられ、言わば足利家に養育された人物です。その後、尊氏と後醍醐とが一時的に和睦した際、尊氏側の譲歩によって皇太子に擁立されますが、後醍醐はそれに不満を持って京を脱出。この裏切りによって成良は皇太子を廃され、恒良と一緒に毒殺されてしまいます。
〇 七男・義良(のりよし:1328~1368)
 北畠顕家とともに陸奥に下向した人物です。まだキャラが立ってはいませんが、これから後醍醐天皇の後を継いで、後村上天皇として即位することになります。
〇 八男・懐良(かねよし:1329?~1381?)
 未登場です。今後、後醍醐天皇の命を受けて九州に下向し、南朝王国を作り上げます。
 さて、8名の皇子を説明して来ました。登場人物が分からなくなったらこの回に戻って来てください。

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