30年日本史00425【平安後期】平治の乱 源義朝横死
平治元(1159)年12月29日。義朝は家臣の鎌田正清とともに、尾張国(愛知県)までやって来ました。この一行の中には、鎌田正清の舅である長田忠致(おさだただむね:?~1190)とその子・景致(かげむね:?~1190)がいました。長田父子は長年源氏に仕えてきた郎党です。
この長田父子が尾張の野間(愛知県美浜町)に家を持っていたため、ここに義朝と正清を匿うこととなりました。
ところが、長田父子は「平氏が義朝を探している」と聞いて、命が惜しくなったのか、はたまた恩賞が欲しくなったのか、主君を裏切ることを決めます。平治2(1160)年1月3日、長田父子は義朝と正清が入浴している最中に襲いかかり、これを斬殺してしまうのです。
長田父子は義朝・正清の首をもって上洛し、清盛に恩賞を求めてきました。平氏一門は、主君を殺しておいて平然と恩賞を要求する長田父子に呆れ果てますが、忠致を壱岐守、景致を兵衛尉に任じ、その功績に報いました。
しかし長田父子の厚顔無恥さは、清盛らの予想を超えていました。長田父子は「恩賞が足りない」と不満をもらしたのです。
このとき、平氏の家人・平家貞は長田父子の面前で、
「主人と婿を殺して恩賞を得ようとはあまりにもひどい。20の指を20日間かけて切り、首を鋸引きにすべきです」
と進言しました。これを聞いた長田父子は震え上がり、尾張へ逃げ帰ったといいます。
だいぶ先の話になりますが、この長田父子の最期についても触れておきましょう。
その後、源頼朝が平家打倒を訴えて決起した際、長田父子は頼朝に
「平家を裏切りあなたに仕えるので、平家打倒が成功したら、美濃か尾張をいただきたい」
と臆面もなく言ってのけました。恩賞のためなら誰をも簡単に裏切る者たちなのですね。頼朝にとっては父の仇であり、顔も見たくなかったでしょうが、少しでも人手が欲しかった頼朝はこれを了承し、長田父子を召し抱えます。長田父子は平家打倒のために戦いました。
そして平家が滅亡した後の建久元(1190)年、頼朝は父の仇であった長田父子を処刑しました。「約束が違う」と訴える長田父子に対して、頼朝は
「約束通り、身の終わり(美濃・尾張)をくれてやったではないか」
と述べたといいます。ちょっと出来すぎた話ですね。
この「主君を裏切って殺し、敵に差し出す」という長田父子の行動は、頼朝を最も怒らせました。こののち、頼朝は多くの敵と戦いますが、敵の内部に主君を裏切って殺し、頼朝にその首を差し出した者が出てくると、頼朝はこれを絶対に許さずに処刑しています。桐生六郎しかり、藤原泰衡しかり、河田次郎しかりです。いずれも、今後登場する裏切り者たちです。
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