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30年日本史00953【南北朝初期】塩冶判官讒死 高貞憤死

塩冶高貞(えんやのたかさだ)の話を延々と書いているわけですが、塩冶の「冶」はニスイであって、サンズイの「治」とは別の字なんですよね。
「治」はチと読むのに対して「冶」はヤと読み、「冶金」とか「陶冶」といった熟語に使います。たまにしか見ない字ですね。

 塩冶高貞の弟・六郎(ろくろう:?~1341)は、郎党たちに対して
「私はここで討ち死にする覚悟だ。そなたらは敵に矢を射かけ、兄上をお逃がしせよ。全員で一度に討ち死にしてはならぬぞ」
と言って、たった7騎で山名軍に向かって駆け出していきました。
 一方、山名師義の兵は12騎です。
 山名勢が川へ馬を入れて渡り始めると、塩冶勢は向かい岸から矢を次々と射かけます。山名師義は矢を3本受けつつも、川を渡り終えて岸に上がって来ました。塩冶六郎は太刀を抜いて斬りかかりますが山名勢に次々とやられ、塩冶勢7騎は全滅しました。
 弟たちが時間を稼いでいる間に塩冶高貞は西へ西へと逃げていきますが、馬が疲れて全く動かなくなったので、道に乗り捨てて徒歩で逃げ始めました。
 山道を逃げ始めた塩冶らに、山名勢が追いついてきました。ここでも塩冶方の郎党たちが必死に戦い、犠牲となりました。山名勢は塩冶の郎党を斬るのに時間がかかり、遂に高貞を取り逃がしました。
 塩冶高貞は興国2/暦応4(1341)年3月30日に出雲国に到着しました。一方、山名時氏・師義父子が出雲国の安来荘(島根県安来市)に到着したのは4月1日のことでした。
 山名時氏は、出雲国中に
「塩冶高貞の反逆が明らかになったため、それを討伐するためにやって来た。塩冶を討った者には恩賞を授けよう」
とお触れを出しました。これを聞いた国中の者が、高貞を裏切ってその首を狙おうとしたといいます。
 高貞は佐々布山(島根県大田市)に登って戦闘に供えようとしますが、丹波路から逃げてきた郎党の一人がやって来て、
「私は奥方にお供をしておりましたが、播磨の蔭山というところで敵に追いつかれ、奥方もお子たちも皆死にました。これをお伝えするためにここまで参りました」
と言うが早いか、その場で腹を切って倒れました。
 これを聞いた高貞は
「妻子を討たれた今、これ以上命を永らえて何になろうか。生まれ変わって師直に思い知らせてやる」
と怒り狂って、馬の上で腹を切り、そのまま落馬して死んだのでした。

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