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30年日本史00401【平安後期】源為義と義朝の対立

 藤原氏の次は、源氏の分裂について見ていきましょう。
 話は遡りますが、久安元(1145)年、源為義の長男・義朝(よしとも:1123~1160)が東国の旅を終えて、京に戻ってきました。
 義朝は為義の長男であったはずなのに、なぜか少年期から東国を放浪する旅に出ていました。理由はよく分かっていませんが、
「父・為義と大喧嘩をして廃嫡されたからではないか」
といわれています。元々、父子仲が悪かったのでしょう。
 義朝は東国で在地豪族らの争いに介入し、調停することで多くの豪族の信頼を勝ち取っていきました。その後、源平合戦の際に東国武士の多くが源氏に味方をしたのは、もちろん源義家の伝説が浸透していたからでもありますが、東国流浪時の義朝の活躍も大いに影響したと考えられています。
 帰ってきた義朝は、いきなり父・為義に対して
「あなたは上皇様(崇徳上皇)に追随している」
と批判しました。為義が大した官職にもつけず、朝廷内で埋没しているのに対し、自分は東国で十分に活躍し、無位無冠ながら多くの豪族との人脈も築いたのだ、という自負があったのでしょう。
 為義は行幸の警護を行うなどして崇徳上皇に仕えていたのですが、義朝は父の命に反して勝手に鳥羽法皇に仕え始めるようになります。義朝が鳥羽法皇を選んだ理由には、もちろん父への反感もあったでしょうが、それ以上に
「時勢は崇徳上皇よりも鳥羽法皇に味方している。鳥羽法皇に仕えるべきだ」
という思いがあったのでしょう。義朝には確かに時代を読む目がありました。
 久安2(1146)年1月23日。藤原頼長の推挙により、源為義は左衛門大尉に昇進しました。ところが義朝は、為義の官職をやすやすと追い越していくこととなります。長らく東国を放浪していたため朝廷で名の売れていなかった無位無冠の義朝はたちまち頭角を現し、仁平3(1153)年には31歳で従五位下・下野守に任じられ、翌年には右馬助を兼務することとなりました。
 ここまで昇進したのは祖父・源義親以来50年ぶりのことで、この時点で検非違使に過ぎない父・為義の立場を超えたこととなります。よほど鳥羽法皇への取り入り方が上手かったのでしょう。
 出世欲旺盛な義朝は、こうして父・為義との対立を深めていったのです。

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