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30年日本史00055【弥生】内藤湖南と白鳥庫吉

 邪馬台国の位置に関する歴史学者たちの議論を見ていきましょう。
 研究者たちの学説は、大きく近畿説と北九州説に分けられます。まず「方角に誤りがあり、南とあるが実際には東のことだろう」と考えれば、九州から近畿へ向かう道と捉えることができます。逆に「距離に誤りがあり、実際の距離はもっと短いだろう」と考えれば、邪馬台国は九州内にあると捉えることができます。
 古くは、本居宣長(もとおりのりなが:1730~1801)が魏志倭人伝を研究しています。本居宣長の主張は「陸行『一月』とは『一日』の誤りであろう」とし、九州説をとるものでした。
 明治43(1910)年。京都帝国大学の内藤湖南(ないとうこなん:1866~1934)は「南とは東の誤記とみられる」として近畿説を主張しました。
 同年。東京帝国大学の白鳥庫吉(しらとりくらきち:1865~1942)は「不弥国以降の日数は誇張」と主張して、九州説を主張しました。
 白鳥が「日数を誇張」とみなしたのはなぜか。実は魏志倭人伝には、帯方郡から邪馬台国までの距離を「12000里」と記載している箇所があるのです。しかし、帯方郡~狗邪韓国~対海国~一大国~末盧国~伊都国~奴国~不弥国の距離を合計すると、
7000+1000+1000+1000+500+100+100=10700里
となり、邪馬台国までの道程は1300里しか残りません。「水行20日」「水行10日陸行1月」を合わせると1300里どころでは足りません。1300里では九州から出ることはできないでしょう。これが、白鳥が「不弥国以降の日数は誇張」と断定した理由です。
 白鳥の主張によると、日数を誇張した理由は、
・魏の使者が褒美を要求するため、殊更に遠方出張したかに見せかけた
・魏の侵略を恐れた邪馬台国が、魏の使者に虚偽を吹き込み、途中で旅を断念させた
などが考えられるとのことです。
 内藤と白鳥の論争をきっかけに、邪馬台国論争は「東大と京大の対決」といった様相を呈してきました。東大は九州説、京大は近畿説にこだわるようになっていったのです。
 こうして邪馬台国論争は大きな盛り上がりを見せたのですが、戦時中は邪馬台国研究が事実上禁止されてしまいます。3世紀に女王卑弥呼が日本を治めていたという魏志倭人伝の記述は、紀元前660年に初代・神武天皇が即位したとする古事記・日本書紀の記述と矛盾するからです。
 邪馬台国研究が再び大きな議論を呼ぶのは、戦後のことです。

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