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30年日本史00496【平安末期】一ノ谷の戦い 鵯越の逆落とし

 一ノ谷に布陣していた平家方に届いた書状は、後白河法皇から和平交渉を薦めるものでした。平家はその書状を信じて、とりあえずは源氏方からの使者を待つこととし、戦闘準備を怠ってしまいます。
 ところが、源氏方には和平交渉を薦めていることなど一切知らされていませんでした。
 後白河法皇が平家を意図的に騙したのか、はたまた、たまたま源氏に知らせるのが遅れただけなのかは分かりません。ただ、この法皇からの書状には平家方を完全に油断させる効果があったといえます。
 寿永3(1184)年2月7日。搦手の義経軍はどこから奇襲攻撃を行うべきか考えあぐねていました。このまま西方に回り込み、西側から平家軍を攻めるつもりでしたが、既に三草山で平家軍と戦っていますから、その作戦は相手方に露見してしまっています。
 そこで義経は、北方から平家軍を攻めることはできないかと考えました。平家方が布陣している場所は海岸沿いで、北側は険しい崖です。この崖の側から攻撃するとは誰も予想しないでしょうから、奇襲として有効だろうと考えたのです。
 北方の崖の上は「鵯越(ひよどりごえ)」という場所でした。弁慶は地元に住む鷲尾三郎という猟師を呼んできて、この崖の方へと案内させます。崖を見下ろしながら義経は、
「この崖を獣は通うか」
と尋ねます。鷲尾三郎は
「鹿なら通いますが、馬はとても無理でしょう」
と答えます。これを聞いた義経は、
「鹿が通うなら馬も通わぬはずはあるまい」
と述べ、馬2頭を落としてみたところ、1頭は足を挫いて倒れてしまいましたが、もう1頭は無事に崖を降りていきました。義経は
「心して下れば馬を損なうことはない。私に続け!」
と叫びながらその崖を馬で駆け降りていきました。
 平家軍は、和平の使者を待つために武装していなかった上に、思わぬ方向から襲撃され、総崩れとなりました。同時に東方からは範頼率いる本隊が攻撃してきます。
 この義経による奇襲は「鵯越の逆落とし」と呼ばれ、伝説となりました。また、鵯越の崖を案内した鷲尾三郎はその後「義久」という名を与えられ、義経の家来となります。
 しかし、この鵯越の逆落としには大きな矛盾があります。鵯越とは現在の神戸市兵庫区鵯越に当たりますが、ここから崖を駆け降りても一ノ谷から東に8kmの海岸沿いに降りるだけで、一ノ谷に布陣した平家に奇襲をかけることはできないのです。そのため、
「逆落としは一ノ谷の裏手にある鉄拐山(てっかいさん)の南東の急峻な崖から行われたのでは」
との説を唱える研究者もいます。

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