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30年日本史00472【平安末期】墨俣川の戦い

 清盛の死から間もなくの治承5(1181)年閏2月15日。平家は、平重衡を大将とする追討軍を尾張(愛知県)に派遣しました。
 それに対し、源行家は墨俣川東岸(岐阜県大垣市)に布陣し、平家を待ち構えました。行家といえば、山伏に変装して東国を回り以仁王の令旨を伝えた人物ですが、彼は頼朝の配下には入らず、独立した勢力として尾張国で兵を集めていたわけです。
 3月10日。両軍は墨俣川を挟んで対峙しました。
 夜間になって、行家軍は奇襲を企ててこっそりと川を渡り始め、相手方の陣地に忍び込みました。しかし、平家軍の中では
「馬や武具が濡れている者がいるぞ」
と異変に気付く者がいました。こうして行家の奇襲はすぐに見破られ、平家軍の中で
「濡れている者を討て」
との指示が行き渡り、たちまち源氏方は全滅に近い打撃を受けました。
 このとき、行家軍の中には義朝の遺児・義円(ぎえん)がいました。義円のことを覚えている読者はほとんどいないでしょう。以前、平治の乱により夫・義朝が敗北したことを知った常盤が6歳の今若、4歳の乙若、0歳の牛若を連れて家を出たことをお話ししましたが、その今若が後の阿野全成、乙若が後の義円、牛若が後の源義経です。
 この義円は、墨俣川の戦いで戦死しました。大将格の武将が戦死するほどの大敗北だったというわけです。現在、岐阜県大垣市の墨俣川古戦場には「義円公園」が整備され、義円の供養塔が設けられています。
 大敗した行家軍はその後、熱田(名古屋市熱田区)に籠もって戦いますが、そこもまた打ち破られ、今度は三河国矢作川(愛知県岡崎市)まで退却します。
 その矢作川を挟んで、平重衡と源行家はさらに二度戦いますが、いずれも平家軍が勝利を収めました。行家は命からがら敗走し、鎌倉の頼朝の元に身を寄せます。しかし、平家方もまた折からの飢饉に悩まされており、それ以上進撃しても食糧の確保が難しいことから、矢作川から東へは進まず、撤退することとなりました。
 その後、行家は頼朝に対して所領を求めて拒絶され、頼朝との関係が険悪となったことから、新たに組む相手を求めて木曽谷(長野県木曽町)へと向かいます。というと、もう誰を頼ったのかお分かりでしょう。
 次回からは、この木曽谷で育った源氏の貴種を紹介し、彼がいかにして成長し、平家を脅かす存在となっていったかを見ていくこととしましょう。

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