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30年日本史00939【南北朝最初期】天龍寺創建

 後醍醐天皇崩御の知らせを聞いた北朝では、天皇や上皇が崩御した際に行われる「廃朝」や「固関の式」といった儀式を行うかどうかの検討が始まりました。
 「廃朝」とは、朝廷の政務を一定期間休止して喪に服すことを意味します。「固関の式」とは、天皇の譲位や崩御のような国家の重大事に当たって、勅使を出して諸国の関所を警固させるものです。といっても、実際に有事に備えて警固するというよりは、単なる儀式となり果てたものです。藤原顕光がこの儀式を取り仕切るに当たって次々とミスを犯した件について、平安中期の章で述べたことがありますね(00348回参照)。
 北朝方からすれば、後醍醐天皇は既に廃された天皇であって、現役ではありません。しかし一度は即位していた人物でありますから、その崩御を弔うべきかどうかは微妙なところでしょう。
 大外記(だいげき:文書作成を担当する高官)を務める中原師茂(なかはらもろしげ)は意見を聞かれ、
「崇徳・安徳・後鳥羽・土御門・順徳の例に従い、省略すべし」
と回答しました。つまり、これまでも政権と敵対した天皇については、崩御しても何らの儀式を行わずに済ませたことがあるのだから、今回もその例に従えばよいというわけです。
 しかし尊氏は、雑訴(つまり裁判所の業務)を7日間停止するという形で後醍醐天皇の死を弔いました。さらに57日目には等持院で、100日目には南禅寺で盛大に供養を執り行った上に、天皇を弔うことを目的に天龍寺(京都市右京区)という寺院の創建を決めました。これは夢窓疎石(むそうそせき:1275~1351)という臨済宗の禅僧に薦められてのことでした。
 さらに、やや先の話ですが、興国2/暦応4(1341)年12月23日には、天龍寺造営の費用を捻出するため、元に貿易船を派遣させています。この船は「天龍寺船」と呼ばれました。
 以上述べた「尊氏が後醍醐天皇を弔った」というエピソードは太平記の創作ではなく、古文書に記録された史実です。尊氏が必要以上に後醍醐天皇の供養に注力したのは、当時広く信仰されていた怨霊の祟りを恐れたためでもあるでしょうが、政敵である後醍醐天皇に対し心底から敬愛の気持ちを持っていたためと思われます。最初に後醍醐天皇と決裂した際にも、髻を切って世を捨てようとしていたほど、尊氏は天皇との対立に悩んでいたのです(00836回参照)。
 天龍寺が創建された後も、室町幕府の庇護のもと、次々と臨済宗の寺院が建てられていき、やがて天龍寺を含む主要な5寺を「京都五山」と呼ぶようになります。京都五山は幕府とつかず離れずの関係を築き、やがて幕府にとって大きな圧力団体へと成長していくことになります。

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