見出し画像

30年日本史00456【平安末期】福原遷都

 反乱が落ち着いた治承4(1180)年6月2日、安徳天皇は摂津国福原(兵庫県神戸市)に遷都しました。といっても、1歳半の安徳天皇自身が自らの意志で遷都するわけがありませんから、実際に裏で手を引いていたのは平清盛です。
 この日、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇らが福原に向けて出発しました。翌6月3日に到着しましたが、安徳天皇の御座所すらなく、やむなく平頼盛(たいらのよりもり:清盛の弟:1133~1186)邸に滞在いただいたとの記録があります。
 公家たちも、都に住む庶民たちも、住み慣れた我が家を失うことを悲しみつつ、
「都に留まると罰せられるらしい」
との噂を聞いて、やむなく引越し作業を始めました。
 8月4日には、高倉上皇の夢に生母・建春門院滋子が現れ、京を離れたことに激怒したとの話が広まりました。高倉上皇自身も首都移転に反対だったのでしょう。
 比叡山延暦寺もまた、都を元に戻すべきであると主張し、「還都(かんと)」を要求してきました。
 8月12日には宗盛が清盛に対して「還都すべき」と主張し、一蹴されています。
 さらには平時忠が清盛に対し、「高倉上皇の意向である」として還都を主張して来ました。清盛は、
「上皇様が帰られるのは結構なことだが、私はお供するつもりはない」。
と述べ、あくまで福原にこだわりました。
 桓武天皇による平安京遷都から280年あまり。政治的にも経済的にも首都としての機能を存分に発揮した平安京をなぜ捨てて、まだ十分な設備がなく住みにくい福原を都にしなければならなかったのでしょう。
 清盛が目指したのは貿易立国でした。宋からの輸入品によって国を富ませ、宋から伝わった貨幣によって国内の流通経済を活性化するためには、貿易の質・量を高めていくしかありません。そのためには、思い切って港町に首都を置くことで、国の主導の下に貿易を管理していくことが必要だったのです。
 この清盛のビジョンは確かに先見の明がありました。しかし、公家たちに対して何らの根回しも説明もせずに突然首都移転を発表したことは、あまりに拙速だったと言わざるを得ません。公卿たちの日記を見ても、清盛のビジョンへの批評はほとんどなく、単に住み慣れた我が家を追われることへの恨み言ばかりが綴られています。清盛の考えは先進的であり過ぎるが故に、誰からも受け入れられなかったのです。
 「平家物語」もまた、この突然の首都移転を清盛の驕りの表れであると評するばかりで、福原遷都に貿易立国という積極的な意義があったことに一切触れていません。信西亡き後、清盛は国家ビジョンを共に語れる相手を失っており、誰にも相談せず一人で決めてしまうことが増えていたのだろうと思います。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?