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30年日本史00841【建武期】箱根・竹ノ下の戦い 義貞敗走

 新田義貞は僅か500騎で東海道を西へ西へと逃げていきます。その最中、伊豆国府(静岡県三島市)のあたりで通りすがりの僧から
「ここから先は足利勢80万騎が道に溢れ返っていて、とても通れますまい」
と言われてしまいます。
 ところが、義貞の側近・栗生顕友(くりゅうあきとも)と篠塚重広(しのづかしげひろ:1309~1342)は、
「味方500騎に敵80万騎とはちょうどよい」
などと無茶苦茶なことを言って、そのまま敵中を全速力で通り抜けようとしました。無茶な人たちです。
 足利勢の中に一条次郎(いちじょうじろう:?~1335)という大男がいて、新田義貞を見つけて大将首をとろうと組みかかっていきます。これを見た篠塚が間に割って入って、一条を投げ飛ばし、そのまま首をとってしまいます。
 一条の家来たちは篠塚にかかって行きますが、次々と討ち取られました。篠塚のあまりの強さに足利勢は恐れおののき、新田勢を黙って通してしまいます。
 そうしているうちに、沿道に隠れていた新田方の敗残兵が次々と新田軍に合流し、2千騎に膨れ上がっていきました。
 次に黄瀬川の陣を通るとき、足利勢500騎ほどが沿道にたむろしていました。彼らは新田軍が襲い掛かると一矢も交えぬまますぐに降伏して来ました。ここでもまたまた敗残兵が合流して来て、新田軍は7千騎になりました。
 こうして新田義貞は無事に逃げおおせることができ、足利軍がすぐにはやって来れない尾張国まで引き返しました。
 それにしても、新田軍は先程まで連戦連勝だったのに、なぜここで敗北したのでしょう。
 「直義が戦下手で尊氏が戦上手だった」という点も挙げられるでしょうが、思うに、棟梁たる尊氏が参加しているか否かで士気に大きな差が出たのだろうと考えられます。緒戦は尊氏が
「帝とは戦いたくない」
と言っている中で、天皇の長男・尊良親王を奉じた新田軍と戦ったものですから、それでは士気は上がらないでしょう。尊氏が戦闘に参加したことでようやく足利軍の兵たちは本来の実力を発揮できたのだろうと思います。
 さて、ここからは足利尊氏と後醍醐天皇の一進一退の攻防が続きます。

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