30年日本史00047【弥生】登呂遺跡の発見
さて、弥生町遺跡の次は、弥生時代を代表する登呂遺跡(静岡県静岡市)について見ていきましょう。
昭和18(1943)年7月10日。静岡市立安西(あんざい)国民学校の教員・安本博(やすもとひろし:1914~1987)が、丸木舟を背負って毎日新聞社静岡支局にやって来ました。驚く森豊(もりゆたか:1917~2001)記者に対して、安本は「大発見だよ」と興奮した面持ちで語ります。
森記者は4月に静岡支局に転勤したばかりでしたが、安本とは懇意の間柄でした。昭和18(1943)年といえば太平洋戦争はもはや敗色濃厚で、物資が底をつきてきたころです。
安本は静岡市登呂にある住友プロペラ工場建設予定地から丸木舟が見つかったといいます。安本の話を聞いた森記者は、
「これは大ニュースだ」
と本社に大急ぎで連絡し、登呂へと向かいました。
建設予定地では、600人近い人夫たちがツルハシやシャベルを振るっていました。そこで掘り出された弥生土器の破片が延々と並べられ、足の踏み場もないほどでした。
森は夢中になってシャッターを切り始めました。すると突然、罵声とともに後頭部を強打され、森はその場に転倒してしまいます。見上げると、軍服を着た男が
「馬鹿野郎、ここをなんと心得とる」
と怒鳴っています。森は、ここが軍事工場の建設現場であることを思い出しました。森は一時間ばかり取調べを受けた後、フィルムを全て没収されて釈放されました。
森が見るところ、軍は遺跡など無視して工場建設を続けていました。何も知らない人夫たちは、平気で土器を叩き壊し、住居跡を踏みにじって作業をしていたのです。
森は「こんな貴重な遺跡を放置して良いのだろうか」と思い悩みました。
フィルムが没収されたため、森は丸木舟の写真を載せ、「静岡で大遺跡発見」との記事を本社に書き送りました。それが静岡版では四段見出しのトップ記事となり、全国版では一段の小さな記事として載りました。これが登呂遺跡発見の第一報でした。
この記事が出るのと前後して、安本は文部省に遺跡発見を報告しました。文部省が東京大学の原田淑人(はらだよしと:1885~1974)教授を派遣し、調査させたところ、
「本格的に発掘調査を行う必要がある」
との進言がなされ、ここに戦時下の遺跡発掘調査が始まることとなりました。
工場建設を妨げないという制約下での発掘だったものの、次々と木製品が出土し、さらに水田跡と考えられる杭列も発見されました。
戦争が激化し、発掘は一時中断しましたが、戦後に再開され、登呂遺跡は弥生時代の代名詞とされるほど著名な遺跡となりました。その陰には、国民学校教員と毎日新聞記者の活躍があったのです。
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