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30年日本史00872【建武期】湊川の戦い 楠木正成自害

 直義が楠木軍に苦戦している状況を見た尊氏は
「兵たちを新手の者に入れ替えよ」
と命じました。そこで楠木軍に対して、吉良・石堂・高・上杉軍が攻めかかっていきました。楠木軍はこの猛攻にも耐え、6時間もの間戦い続けました。
 遂に楠木軍は73騎にまで減り、正成・正季兄弟はもはやこれまでと覚悟を決め、近くの空き家に走り込みます。
 正季が
「七度生まれ変わっても、再び人間に生まれて朝敵を滅ぼしたいものです」
と言うと、正成も
「私も同じ思いだ。では生まれ変わるために本望を遂げることにしよう」
と述べ、楠木兄弟は互いに刺し違えて自害を遂げました。楠木軍の50名あまりがこれに殉じて切腹したといいます。
 さて、楠木正成の最後の戦いは、僅か700騎を率いたものでした。これは新田義貞率いる2万5千騎はおろか、脇屋義助率いる5千騎、大館氏明率いる3千騎と比べてもひどく少ない人数です。
 そこから、
「楠木正成は太平記の中で主要人物と位置付けられているだけで、実際には大将になるほどの身分ではなかったのでは」
との疑問が呈されています。
 確かに正成の出自は謎だらけです。太平記では「河内の悪党」と位置付けられているものの、近年は
「元は鎌倉幕府に仕える御家人だったのでは」
との説も有力視されています。というのも、元関白・二条道平(にじょうみちひら:1287~1335)の日記「後光明照院関白記」には、正成が千早城で幕府の大軍を迎え討ったときに、都で流行ったというこんな落首が紹介されているのです。
「くすの木の ねハかまくらに 成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」
 これは
「楠木の根は鎌倉にあるはずなのに、なぜその木の枝を切るために幕府軍は河内国まで出てきたのだろう」
という意味であり、楠木が鎌倉幕府の御家人であることを示唆しています。一体楠木家とはどのような家柄なのか、さらなる研究が待たれるところです。

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