見出し画像

30年日本史00399【平安後期】忠通と頼長 立后を巡る対立

 藤原摂関家が、「父忠実+次男頼長 VS 長男忠通」という構図で対立を深めてきたことについては既に述べました。鳥羽法皇は、祖父・白河の人事を否定したい気持ちから忠通を冷遇し、忠実・頼長を厚遇したのでした。
 ところが、この構図が徐々に逆転し、鳥羽法皇は忠通を厚遇し、忠実・頼長を冷遇するようになっていくのです。その経緯を見ていきましょう。
 久安元(1145)年4月18日。藤原忠実は次男・頼長に対し、律令・格式・叙位・除目など先祖伝来の秘記を授けました。落ち目であった摂関家復興の悲願を頼長に託したのです。
 久安5(1149)年7月28日。藤原頼長は左大臣に昇進しました。太政大臣という常設でない役職を除くと、左大臣は最高の地位です。
 頼長としては、近衛天皇との縁を結んでおきたいですから、翌久安6(1150)年、鳥羽法皇に
「養女の多子(まさるこ:徳大寺公能の娘:1140~1202)を近衛天皇に入内させたい」
と申し入れました。鳥羽法皇の了解が得られ、多子の入内は無事に叶いました。
 しかし僅か1ヶ月後、藤原忠通の養女・呈子(しめこ:藤原伊通の娘:1131~1176)が競うようにして入内しました。頼長は焦ります。
 多子と呈子の格にはっきり差を設けておきたいと考えた頼長は、鳥羽法皇に対し、
「多子を皇后にしたい」
と要請しました。しかし法皇から明確な回答は得られません。兄・忠通が鳥羽法皇に
「摂関の娘以外は立后させるべきではない」
と述べ、弟・頼長を牽制していたためでした。
 頼長は父・忠実に援護を要請し、忠実が鳥羽法皇に直談判を行いました。このとき、同席していた頼長は、
「もし呈子が多子より先に立后したら、自分は遁世する」
とまで述べて、忠通を牽制したといいます。
 鳥羽法皇は困りました。これまで弟・頼長の味方をしてきたものの、かくもあからさまに兄・忠通を冷遇してよいものか、迷ったのです。鳥羽法皇は仕方なく、まず3月14日に多子を皇后に据え、その後6月22日に呈子を中宮に据えることにより、兄・忠通と弟・頼長の両方を立てることとしました。それでも頼長は大いに不満を示しました。
 この一件は、ただでさえ険悪だった忠通・頼長兄弟の仲を決定的に引き裂くこととなりました。また、鳥羽法皇にとっても、わがままな頼長に対して嫌気がさす契機になったと考えられます。

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?