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30年日本史00012【旧石器】消された功績*

 杉原らによる岩宿遺跡の発掘は昭和24(1949)年9月13日まで行われ、50点もの石器が出てきました。
 9月19日。明大に戻った杉原は、慌しく記者会見を始めました。縄文文化よりもさらに古い、全く別の文化が発見されたわけですから、これは世紀の大発見です。新聞の扱いもそれはそれは大きなものでした。
 9月20日の毎日新聞には、このような記事が載りました。
「旧石器の握槌(にぎりつち) 群馬県で発見 明大杉原助教授 十万年前と推定」
「このほど明大考古学研究室によって原始人の手で作られた旧石器が発見された。現場は群馬県桐生市外笠懸村字岩宿にある岩宿小丘といい、去る四日地元アマチュア考古学者がここで集めた石剥のなかに珍しい形のものがあるのを同教室の杉原助教授が発見、十一日から三日間現地試掘したところ関東ローム層の下部から旧石器時代特有の形をした横刃形(おうじんけい)、尖刃形(せんじんけい)石器十数個をはじめ粘板岩(ねんばんがん)製のクドアポン(握槌形石器)を発見したもの」
 この「十万年前」というのは大袈裟で、現在では岩宿遺跡は約3万年前のものと考えられています。
 しかし、この記事を読んで「おや」と思ったところがありませんか。そう、相澤の名がないのです。世紀の大発見を伝える新聞記事には、明大の杉原助教授の名だけが書かれてあり、相澤の名前がありませんでした。相澤は後に
「新聞記事を見て怒りに震えた」
と語っています。
 当時、大学教授が学生や協力者の手柄を自分のものにしてしまうということはよくある話でした。相澤の発見もまた、杉原に奪われてしまったということなのでしょう。
 杉原は岩宿の発掘報告書の中に、相澤の名を記して謝意を表しているものの、
「相澤忠洋君にわれわれの発掘調査についての斡旋の労をとっていただいた」
と書かれているのみであり、発見者ではなく単なる斡旋者ということになってしまっています。相澤にとっては大いに不満だったことでしょう。
 芹沢は、杉原に対して
「相澤さんの名前をもっと前面に出して記者発表すべきだ」
と抗議したそうですが、容れてもらえなかったそうです。自分が相澤を杉原に紹介したことによって、相澤の業績を奪われてしまったわけですから、申し訳ない気持ちでいっぱいだったでしょう。
 これが一因となって、芹沢はその後、師・杉原の研究室から離脱していくことになります。

岩宿遺跡の相澤忠洋像。今や岩宿といえば杉原荘介ではなく相澤忠洋が発見したものと誰もが知っている。

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