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30年日本史00523【鎌倉初期】八歳の死刑囚・平能宗

 捕虜として六条通りを引き回された宗盛は、鎌倉に連行されて処断を受けることとなったのですが、いよいよ明日に都を出発するという元暦2(1185)年5月4日、宗盛は義経に、次男の「副将(ふくしょう)」こと能宗(よしむね:1178~1185)に会いたいと懇願しました。人情に甘い義経は
「親子の情愛は断ち切ることのできないものでしょう」
と言って、これを許可しました。
 女房たちに連れられてやって来た数え八歳の能宗は、久しぶりの父との対面に喜んで宗盛の膝に上り、宗盛は涙ながらに髪を撫でてかわいがりました。宗盛が
「この子の母は、子を産んですぐに病に臥せり、『どうかこの子を私の形見だと思って傍に置いてください。乳母のところへやらないでください』と言ってきたので、私の家で直接育てることとしたのです。将来、副将軍にしてやろうと思って幼名を『副将』と名付けると、母はたいそう嬉しそうな様子で、死の間際まで『副将、副将』と名を呼んでかわいがっていましたが、出産から7日後に死んでしまったのです」
と言うと、長男の清宗や、警護の武士、乳母たちは皆泣き出したといいます。
 やがて別れの時間が来ましたが、能宗は泣いて宗盛の袖にすがり、なかなか離れようとしません。やむなく乳母が無理に能宗を抱き取って帰っていきました。
 翌日、義経に仕える河越重房(かわごえしげふさ:1169~1185)が、義経に「能宗をどういたしましょうか」と相談しました。鎌倉からは、「宗盛・清宗父子を鎌倉に連行するように」との指令が届いていただけですから、つまり能宗はここで斬るしかありません。
 河越重房は、能宗の幽閉されている館へ出迎えに生きました。能宗は
「また昨日のように父上のところへ参るのか」
と喜んで車に乗りますが、車は六条通りを東へ向かいます。罪人の処刑場である六条河原に向かっていることに気づいた乳母たちは動揺します。
 河原で車を降りた能宗は不審そうに首をかしげました。重房の郎党が刀を抜くと能宗は逃げ出し、乳母のふところに隠れます。乳母たちもまた泣き叫びますが、重房は
「今どのようにお思いでも、望みはかなえられません。さあ早く」
と促し、郎党たちが乳母のふところから能宗を引きずり出し、斬りました。さすがに武士たちもあまりの痛ましさに涙を流しました。
 能宗の首は義経に届けられましたが、乳母たちはこれを裸足で追いかけて、
「後世を弔いたいので首は返していただきたい」
と願い出ました。義経が憐れんで首を返却したところ、乳母たちは亡骸を抱いて桂川に身を投げたといいます。

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