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30年日本史00059【弥生】弥生時代総括*

 さて、弥生時代について考古学上の研究史と歴史学上の研究史をそれぞれ見てきました。
 弥生土器は高温で焼いているため薄手で硬いのですが、文様がなく、芸術性という点ではいささか後退したように思われます。人々がより実用を求めるようになったということかもしれません。また、吉野ヶ里遺跡に代表されるように、集落の周囲に環濠を築いているものが多く見られ、戦闘によって死んだと思われる人骨も多数出土しています。縄文時代に比べて文明化が進んだ反面、戦争が多かった時代なのですね。
 戦争といえば、魏志倭人伝の中には、邪馬台国と狗奴国(くなこく)の戦争について書かれた部分があります。狗奴国は邪馬台国の南にある国で、卑弥弓呼(ひみここ)という男王がいて、卑弥呼と険悪で絶えず戦争をしているというのです。
 余談ですが、邪馬台国の女王が「ひみこ」で狗奴国の男王が「ひみここ」。偶然の一致というにはいかにも不自然ですね。そこで、「卑弥弓呼(ひみここ)」は実は「卑弓弥呼(ひこみこ)」の誤りではないかという説を主張する学者もいます。「ひこみこ」は男性を表す「彦」に皇子を意味する「みこ」を重ねたもので、人名ではなく一般名詞ということになります。
 同様に、「ひみこ」もまた「ひめみこ」が訛ったものではないかと推理することができます。「ひめみこ」もまた、人名ではなく単に皇女(王家の女)という意味となります。
 魏志倭人伝には「名曰卑弥呼(名を卑弥呼と曰く)」とあり、卑弥呼が人名だと書いてあるのですが、倭人が女王を「ひみこ」と呼んでいるのを聞いて人名だと勘違いして記録した可能性が考えられます。
 まあ魏志倭人伝の記述については「ここは誤記ではないか」「ここは記録者の勘違いではないか」という説が多数ありすぎてキリがない状況なのですが。
 さて、弥生時代に入ってようやく日本人は稲作を開始しました。
 日本は長年の間、税も給与も米で支払われ、江戸時代には各国の国力を石高で表すというほどの農業文化国でした。してみると、弥生時代こそが日本文化の原点なのかもしれません。
 では、縄文文化は日本人の中に一切残っていないのかというと、そんなことはありません。弥生時代になっても、北海道では稲作は伝来せず、引き続き縄文文化が栄えていたのです。そこで、「アイヌ民族こそが縄文文化を継ぐ民族である」との説が有力視されています。大陸から渡来した弥生文化を受容したのが大和民族で、拒否したのがアイヌ民族だというのです。
 「縄文」という日本古来の文化に対する「弥生」という新しい文化の侵食。もしかするとそこには侵食を拒もうとする勢力があり、場合によっては武力闘争もあったのかもしれません。
 さて、これで旧石器・縄文・弥生の説明を終え、原始時代が終了したことになります。次回からは、ようやく考古学の世界から飛び出して、ストーリー性のある時代に進むことができそうです。

最古の農村(争いあり)たる板付遺跡の環濠。弥生後期の吉野ヶ里遺跡に比べ、堀は浅い。稲をめぐる争いが起こり始めていた頃のものと考えられる。

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