30年日本史00943【南北朝初期】常陸合戦 駒楯城の戦い
北畠親房が小田城に入ってからしばらくの間は、常陸国内における南北朝の戦いは、南朝方が優勢に進めていました。
まず延元4/暦応2(1339)年7月26~27日に、長福楯(福島県棚倉町)において南朝方の結城親朝が北朝方を破りました。親房が常陸入りしたことで、南朝方の士気が鼓舞されたのでしょう。
苦境に陥った北朝方は、常陸に高師冬(こうのもろふゆ:?~1351)を派遣します。師冬は師直の従兄弟に当たり、なかなかの強者です。
同年10月、高師冬は南朝方の中御門実寛(なかみかどさねひろ)が立て籠もる駒楯城(茨城県下妻市)を包囲しました。この駒楯城の戦いは半年以上も続き、南朝方は疲弊していきます。
延元5/暦応3(1340)年1月には、小田城から春日顕国(かすがあきくに:?~1344)、関城から関宗祐(せきむねすけ:?~1343)が、駒楯城の南朝方を守るべく駆けつけて来ましたが、戦局を逆転させるには至りません。
興国元/暦応3(1340)年5月27日、師冬は遂に駒楯城を陥落させました。ところが、翌28日には南朝軍がこれを奪回し、さらに29日には南朝方が高師冬の拠点であった飯沼城(茨城県茨城町)を陥落させ、大勝利を収めました。
何とも劇的な大逆転で、きっと様々なドラマがあったのだろうと思いますが、残念ながらこの戦いの詳細は記録されていません。師冬以外の北朝方の主要な武将の名前すら記録されていないのです。
こうした常陸国における戦いにおいては、北畠親房は「御教書(みぎょうしょ)」を次々と出すことで指揮していました。「御教書」とは三位以上の公卿が出す命令書であり、小田城滞在中に数十通を発信していることが確認されています。特に多い発信先は結城親朝でした。
一見すると、常陸という一地方で戦闘の指揮を執ることは、南北朝を統一するためには遠回りのようにも思われますが、南朝にとって足利家が君臨する京の奪還は相当にハードルが高いので、まずは地方から着々と南朝方の領地を増やし、徐々に京に迫っていこうと考えたのでしょう。
ところが、親房が順調に味方を増やし勝利を収めたのはここまででした。詳しくは後述しますが、興国2/暦応4(1341)年頃から「藤氏一揆」と呼ばれる南朝の内紛が起こり、常陸国内でも南朝方の勢いは徐々に弱まっていきます。
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