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30年日本史00864【建武期】船坂の戦い

 新田義貞が白旗城を諦めて備前に入るべく、船坂峠(兵庫県上郡町と岡山県備前市の境界)に向かったのは延元元/建武3(1336)年4月のことでした。しかし船坂峠は切り立った険しい道である上に、このあたりに住むのは足利勢に味方する者ばかりです。峠を越えるのは難しそうだと困る義貞に、備前国の住人・児島高徳から書状が届きました。
「船坂を越えようとしていると聞きましたが、この船坂は天然の要害であり、簡単には破れないと存じます。私は来たる4月18日に熊山(岡山県赤磐市)にて挙兵する予定です。そうすれば、船坂を守る敵兵たちもきっと熊山に攻めてくることでしょう。そのとき船坂は手薄になるでしょうから、あなた様の軍を二つに分け、そのうち一隊を密かに別の道から迂回させ、船坂の敵を挟み撃ちにすれば必ずや勝利できると思います」
 義貞は喜んで、この児島高徳の作戦に乗ることとしました。
 いざ4月18日になって児島高徳が熊山で決起したところ、船坂の軍勢はこの陽動作戦にかかり、熊山に攻めかかっていきました。高徳は僅か200騎の手勢で、敵に近づいたかと思うと遠ざかり、時間を稼ぐようにして戦いました。
 この戦いで高徳は敵の太刀で顔を斬られ、気を失いそうになりますが、父・和田範長(わだのりなが:?~1336)から
「これしきの小さな傷で弱るとは、この一大事をその程度の心で思い立ったというのか」
と叱られ、高徳は息を吹き返し
「もう一戦してくれる」
とさらに敵を近く引き付けて戦い続けました。
 その頃、新田義貞と脇屋義助は船坂に進んでいました。陽動作戦で兵を減らした船坂の軍はもはや新田軍の敵ではなく、馬や甲冑を捨てて次々逃げ出していきます。新田軍はこれを追撃して次々と討ち取っていきました。
 このとき、新田軍に追われた船坂の軍の中に、美濃佐重(みのすけしげ)という男がいました。美濃佐重は逃げ場を失い、一旦は腹を切ろうとしましたが、思い直して鎧をつけ直し向かってくる敵の方にぐんぐん進んでいきました。
 新田軍から誰何された美濃佐重は、
「私は皆様の道案内をしていた者ですが、合戦の様子を詳しく新田殿にご報告しにまいるところです」
とぬけぬけと答え、そのまま新田義貞のそばに行き、
「美濃佐重、降伏いたします」
と申告し、命を永らえました。昔からこういう抜け目のない男がいたのですね。
 こうして児島高徳の活躍により、新田軍は船坂峠を越えることができたのです。

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