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30年日本史00916【南北朝最初期】京都御所成立

 延元2/建武4(1337)年の出来事としてもう一つ語っておかなければならないのが、京都御所の成立です。
 現在、京都市上京区には「京都御苑」と呼ばれる巨大な一角があります。これは天皇が居住していた「京都御所」の周辺を公園として整備したもので、首都が東京に移転した今もなお、宮内庁の管理下にあります。
 京都御所は幕末の蛤御門の戦いなどの舞台となったこともあり、現在も観光地として人気がありますが、実は平安京に遷都された時点で既に天皇の御所だったわけではありません。ここが天皇の宮殿となったのは延元2/建武4(1337)年9月2日のことであり、最初に居住したのは北朝2代の光明天皇なのです。
 平安京遷都の頃は、天皇の宮殿は現在の京都御所よりも1.7km西の千本通り沿いにありました。しかし度重なる火事で宮殿は何度も炎上し、天皇は外戚の実家などに避難を強いられました。その家を仮の皇居と定め、「里内裏(さとだいり)」などと呼びました。
 天皇は里内裏を転々としましたが、花園天皇の時代に「冷泉富小路殿」に移りました。その冷泉富小路殿が延元元/建武3(1336)年に焼失したことから、光明天皇は新たな里内裏を探し求め、延元2/建武4(1337)年9月2日、「土御門東洞院殿」に入居しました。
 天皇が土御門東洞院殿に移ったのは一時的な措置のはずだったのですが、これ以降も戦禍が絶えることはなく、新しい内裏の建設は遅々として進みませんでした。やむを得ず北朝の天皇は本格的な内裏の造営を諦め、土御門東洞院殿を正式な内裏に定めました。
 先の話になりますが、応永8(1401)年にまたもや火災が起き、土御門東洞院殿は焼失してしまいます。そこで3代将軍足利義満は、
「この際、本格的な内裏を作ろう」
と思い立ち、敷地を大幅に拡大して本格的な内裏としての機能を持つ土御門東洞院殿を再建しました。これがその後も拡大を続け、「京都御所」と呼ばれるようになりました。
 現在京都御苑に行くと、かつてそこに所在した様々な建物が案内板で紹介されており、藤原道長の邸宅「土御門殿」もそこにあったことが分かります。あたかも京都御所の敷地内に道長が住んでいたかのように勘違いしてしまうのですが、実際には道長の時代にはそこは御所ではなかったわけです。
 一方、平安時代に宮殿のあった場所は、鎌倉時代以降は内野(うちの)と呼ばれ、鎌倉幕府滅亡の戦いの舞台となったり(00785回参照)、明徳の乱の激戦地になったり(後述)します。現在は内野児童公園となっており、かつてそこに大極殿があった旨の説明板などがあります。

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