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30年日本史00905【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 義貞脱出

 杣山城の里見時成や瓜生兄弟が討たれたとの情報が入り、金ヶ崎城に立て籠もる新田軍の兵たちはひどく心細さを感じました。日が経つにつれて兵糧も減っていき、川魚を釣ったり海藻を採ったりして飢えをしのぎました。
 やがて魚と海藻だけでは持ちこたえられなくなり、困った兵たちは馬を毎日二頭ずつ殺し、食事に当て始めました。
 耐えられなくなった金ヶ崎城の兵たちは、新田義貞・脇屋義助兄弟に
「ご兄弟はどうぞ杣山城へ行ってください。そこで軍勢を集めて戻ってきて、足利勢を追い払って下さい」
と薦めました。確かに、人気のある義貞自身が出馬した方が兵を集めやすいでしょう。これを聞いた義貞・義助は、延元2/建武4(1337)年3月5日、洞院実世とともに夜中に金ヶ崎城を抜け出し、杣山城へと向かいました。
 金ヶ崎城には義貞の嫡男・義顕のほか、恒良親王・尊良親王の兄弟が残されました。義貞がなぜ重要な皇子二人を残したままにしたのか理解に苦しむところですが、城を抜け出すのは残るよりも余程危険と考えたのかもしれません。
 杣山城の面々は義貞との合流を喜び、ともに金ヶ崎城を救おうと作戦を練りますが、そのうちに足利勢は10万騎を超え、新田勢500人では戦いようもない状況となってしまいました。馬も武具も不十分で、どうしようと悩んでいるうちに日が経ち、金ヶ崎では食糧を食べ尽くして体が動かない者が出てきてしまいました。
 一方その頃、足利勢の兵たちは高師泰に対し、
「金ヶ崎城は兵糧が少なくなって、遂に馬を食べ始めているようです。というのも、初めは城中で馬の湯洗いをしている様子が見受けられましたが、この頃は馬を一頭も見かけないのです。一度攻めてみましょう」
と進言していました。高師泰もこれに賛成して、3月6日早朝に10万騎で城に攻めかかりました。
 金ヶ崎城の兵たちは城門の近くまでふらふらと歩き出てきましたが、刀や弓を使う力も出ず、ただあえぐばかりでした。足利勢はこの様子を見て、
「もはやここの城兵は弱りきっている。日暮れまでには攻め落とそう」
と言って、塀を打ち破って城内に攻め込んでいきます。
 いよいよ金ヶ崎城の落城が近づいています。

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