30年日本史01026【南北朝前期】義詮帰洛
正平6/観応2/貞和7(1351)年3月10日。丹波に逃れていた義詮がようやく帰洛してきました。
尊氏と直義の間で和睦が成立したのは2月20日のことでしたね。その後、尊氏の上洛は27日で、直義の上洛は28日でした。丹波という比較的近辺にいた義詮の上洛が3月10日というのは、あまりに遅いと言わざるを得ません。それも細川顕氏が迎えに行ってようやく帰洛したというのですから、参上するのを渋っていたのでしょう。
なぜ渋ったのかというと、どうやら義詮は直義を嫌っていたようなのです。というのも、詳しくは後述しますが、この後尊氏・直義兄弟の内紛が再燃したとき、義詮はいとも簡単に尊氏方についてしまうのです。
そもそも義詮はなぜ鎌倉から京へ戻ってきたのか思い出してください。高師直と足利直義の対立が始まったとき、師直は「御所巻」によって直義の政界引退を決め、直義の後継者として義詮を指名したのでした。つまり足利家を「師直派」「直義派」の二派に分けるとすると、義詮はどちらかというと師直派の人間のはずなのです。
ところが師直が殺され、兄弟対決の決着がついた今回、直義が政務責任者として指名したのは義詮でした。直義には気に入っている直冬という養子がいるにもかかわらず、です。
言われてみれば、直義は元弘3(1333)年12月14日に後醍醐天皇の命で鎌倉に下向し、当時3歳の義詮(当時は千寿王と名乗っていました)を補佐する役割を担っていました。この2人の関係は、中先代の乱で鎌倉から逃亡する建武2(1335)年まで続くので、直義から見て義詮は
「幼い頃に世話してやった可愛い甥だから、私の教えをよく守って立派に政務を担当してくれるだろう」
といった具合に親近感を覚える対象なのでしょう。
ところが義詮から見て直義は、
「3歳から5歳の間に世話してやった」
などと言われても、ほとんど記憶にありませんし、父・尊氏と対立した叔父に過ぎません。勝手に父親気取りで接して来られても困るでしょう。実際、6月に義詮は自らの直属の行政機関「御前沙汰」を設立するのですが、これは直義の権限に対抗するためとみられており、直義・義詮の関係は上手くいっていなかったようです。
どうも直義は、兄と対立しながらも兄の子孫をしっかり残し、あくまでも兄を立てようとしていた気がしてなりません。尊氏は直義を憎み切れず、直義も尊氏を憎み切れない。観応の擾乱とは、そのような不思議な兄弟争いなのです。
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