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30年日本史00920【南北朝最初期】青野原の戦い

 鎌倉を出発した北畠顕家の軍が尾張の熱田(名古屋市熱田区)に到着する頃には60万騎の大軍勢に膨れ上がっていました。
 これに対し、三浦半島に逃れていた足利勢もまた、兵力を整えてこれを追跡します。足利勢は8万騎で、北畠軍に比べると少ないものの、そこそこの軍勢です。
 足利勢は美濃国(岐阜県)までやって来たところで、
「尊氏殿はきっと宇治と瀬田の橋を外して北畠軍を防ごうとされるだろう。それによって北畠軍は川を渡る方法を失い、無駄に時を過ごして疲れ始めるだろう。そこに我々が攻めれば勝てるのではないか」
などと議論し始めました。これを聞いていた土岐頼遠は、
「そもそも目の前を敵軍が進んでいるのに、矢の一本も射ずに見過ごして、後日疲れたところに乗じて攻めるというのはいかがなものか。他の皆さんはどうするか知らないが、私としてはここで命懸けの合戦をしたい」
と述べました。これには桃井直常をはじめ諸将も賛成し、足利軍は北畠軍との決戦に挑むこととなりました。
 その頃北畠軍は垂井(岐阜県垂井町)にいましたが、後ろを足利軍が追って来ていると聞き、これを迎え討つ段取りを整えました。両軍が激突したところは青野原(岐阜県垂井町)といって、関ヶ原に近いところです。この戦闘は延元3/建武5(1338)年1月28日から始まりました。
 足利軍は一番手として芳賀高名率いる2千騎を出しますが、北畠軍3千騎の前に次々と討たれてしまいます。
 足利軍の二番手として高重茂率いる3千騎が墨俣川を渡り始めますが、渡り終えないうちに北条時行勢5千騎に敗れてしまいます。
 三番手には今川範国と三浦高継(みうらたかつぐ)が討って出ますが、これまた敗れて退きます。
 四番手に上杉憲顕が1万騎で討って出て、新田義興ら3万騎と対決しました。上杉軍は相当に善戦したものの、長時間戦っているうちに疲労困憊し、遂に散り散りになって逃げて行きました。
 五番手に桃井直常と土岐頼遠が精鋭を選りすぐった1千騎が討って出ました。これを迎え討つのが北畠顕家率いる6万騎です。「太平記」には
「敵千騎に味方1騎を向かわせてもなお数が足りない」(つまり兵力に千倍以上の差がある)
と書いてあり、この作者は計算ができないのかなと思われますが、いずれにせよ圧倒的に不利な状況の中で桃井・土岐は長時間持ちこたえました。しかし桃井軍は76騎に、土岐軍は23騎になるまで討たれ、遂に逃亡しました。
 こうして青野原の戦いは、北畠軍の勝利に終わったのです。

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