30年日本史00045【弥生】弥生町遺跡の発見*
弥生時代の研究史は、明治17(1884)年3月1日、15歳の少年、有坂鉊蔵(ありさかしょうぞう:1868~1941)が姉婿の石川千代松を訪れるところから始まります。モースによる大森貝塚発掘から7年後のことです。
石川宅には、友人の坪井正五郎と白井光太郎(しらいこうたろう:1863~1932)が訪れていました。石川・坪井・白井の3名は東京大学理学部生物学科の学生であり、モースの教え子です。石川は、坪井と白井に対し義弟の有坂を紹介しました。有坂は12歳頃から考古学に関心を持ち始め、既にあちこちの貝塚を趣味で発掘していたのです。
有坂少年は、坪井・白井とすぐさま意気投合し、翌日、既にそれぞれがその存在を知っていた東京大学裏手の向ヶ岡弥生町(東京都文京区)の貝塚に出かけます。現在の東京大学浅野キャンパス付近です。
有坂が地面を観察していると、足元に壺が埋まっているのが見えました。取り出そうとしてもびくともしないので、周りの土を払ってから取り出してみたところ、上部がやや欠けているもののほぼ完全な形の壺が現れました。
球形に近い壺で、特段の装飾はありません。縄文土器とはまるで異なるものです。この壺こそ、記念すべき弥生土器第1号となる土器なのです。しかし、そのときはまだ、この壺の重要性に誰も気づきませんでした。
8年後の明治25(1892)年、坪井正五郎は西ヶ原貝塚(東京都北区)への発掘調査を行いました。そこで坪井は縄文土器とは異なる土器群を発見します。これが向ヶ岡弥生町のものと類似しているということで、坪井はこれらを「弥生式土器」と名付けました。これが「弥生時代」の語源となるのです。
ちなみに、「向ヶ岡弥生町」の語源は、徳川斉昭(とくがわなりあき:1800~1860)の和歌にあります。
「文政十余り一とせといふ年の弥生の十日(文政11年3月10日)」
という詞書が添えられ、
「名にしおふ 春に向ふが 岡なれば 世にたぐひなき はなの影かな」
という歌が残されているのです。
この歌が詠まれた水戸藩の中屋敷のあった場所を、明治政府が「向ヶ岡弥生町」と名づけたというわけです。もし、徳川斉昭が歌を詠んだのが2月だったなら、「弥生時代」ではなく「如月時代」となっていたかもしれませんね。
なお、有坂は後に海軍造兵中将に、坪井は後に人類学者に、白井は後に植物学者となり、それぞれ大成します。一人として考古学者にはならなかったんですね。(まあ坪井は人類学者と名乗りつつ、考古学者としての活動もしていたわけですが。)
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