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30年日本史00048【弥生】吉野ヶ里遺跡の発見

 登呂遺跡に続いて、吉野ヶ里遺跡について見ていきましょう。
 昭和61(1986)年。バブル経済の真っ只中で、佐賀県庁は企業の誘致を狙って神埼(かんざき)工業団地の建設を計画しました。2千人の雇用と850億円の経済効果を見込めるとの試算です。町は活気付きました。
 建設を始めるに当たって、文化財保護法に基づく発掘調査を行うこととなり、佐賀県庁に6人のチームが編成されました。その責任者に指名されたのが、文化課に勤務していた七田忠昭(しちだただあき:1952~)でした。
 建設予定地の場所を聞き、七田ははっと息を呑みました。吉野ヶ里と呼ばれるその場所は、亡き父・七田忠志(しちだただし:1912~1981)が「巨大遺跡があるに違いない」と予言し、独り発掘をしていた場所だったのです。
 七田が発掘調査を始めると、実に広範に渡って弥生土器が次々と出土しました。その規模は、30ヘクタールに及ぶものでした。ただ、この時点では、発掘チームは皆、調査が済んだら団地が建設されるものとばかり思っていました。しかし、チームの一員がある日、1メートルを超える甕棺(かめかん:壺のような形の棺)を見つけ、しかもその中から人骨が見つかったのです。さらにその後、深さ3メートルの環濠(かんごう)跡が出土し、その堀は南北1キロメートルに及んでおり、相当巨大な規模の集落だったことが分かってきました。
 七田は、この遺跡をどうにかして保存できないかと思い始めていました。しかし、町民は皆、雇用創出を求めて工業団地の建設を期待していたのです。遺跡発掘などという経済発展につながらない事業に、町民の理解が得られるとは思えませんでした。
 思い余った七田は、弥生時代研究の権威であった奈良国立文化財研究所の佐原真(さはらまこと:1932~2002)に電話をかけました。
「すごい遺跡なんです。とにかく見に来てください」
 10日後にやってきた佐原は、環濠の規模に圧倒されました。
「これほど大規模な環濠集落は見たことがない。邪馬台国の有力な候補地ではないか」
 予想以上の反応に驚いた七田は、上司に遺跡保存を訴えます。
 県庁で検討会が開かれました。幹部の多くが工業団地建設を優先すべきだと主張する中、香月熊雄(かつきくまお:1916~1995)知事は英断を下しました。
「もう一度発掘調査をして、遺跡の価値を判断すれば良いではないか」
 平成元(1989)年3月2日。保存か取り壊しかを決める運命の発掘が始まりました。果たして、新たな甕棺が出土し、その中から管玉と銅剣が見つかりました。王の権威の証です。吉野ヶ里に国の支配者の墓があったことが明らかとなったのです。
 3月7日。佐賀県は、吉野ヶ里遺跡の保存を決定しました。その後、吉野ヶ里ではさらなる発掘調査が進められ、今や登呂遺跡を超え、弥生時代を代表する遺跡となりました。
 現在吉野ヶ里には国立公園が建設され、年間50万人の観光客が訪れています。

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