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30年日本史00044【弥生】弥生時代概観*

 今回から弥生時代に入ります。
 弥生時代の始まりは、高校教科書(山川出版社)によると紀元前4世紀です。しかし平成15(2003)年に、国立歴史民俗博物館が「稲作開始は紀元前10世紀ころと判明した」と発表し、弥生時代の開始年代は大幅にさかのぼることとなりました。
 しかしながら、私の持つ平成25年発行の教科書には未だに「紀元前4世紀」と書かれており、どうも紀元前10世紀説は学界でまだコンセンサスが得られていないようです。
 弥生時代のイメージといえば、
・石包丁を使って水田耕作を行い、稲を高床倉庫で保管していた。
・薄手で硬く、文様のない弥生土器を使っていた。
・青銅器を祭器として使い、鉄器を工具・農具として使っていた。
・集落の周囲に堀を作っており、戦争が多かった。
・身分の差があった。
・後期には邪馬台国が現れ、卑弥呼や壱与が統治した。
といったものでしょうか。あとは、
「縄文人は丸顔で目鼻の彫りが深いのに対し、弥生人は面長でのっぺりした顔である。よって、弥生人は縄文人とは別の民族である」
というイメージもお持ちではないでしょうか。しかし、こういった顔の違いは最近の研究で否定されつつあるようです。
 さて、本稿ではまず、弥生時代という用語の元となった弥生町遺跡の発見から書き起こします。次いで、弥生時代を代表する登呂遺跡、吉野ヶ里(よしのがり)遺跡について触れます。それから、弥生時代について書かれた中国の歴史書を読み解いていきます。漢書地理志(かんじょちりし)、後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の順ですね。最後に、邪馬台国の場所をめぐる議論を紹介します。北九州説と近畿説を中心に見ていくことになります。
 さて、「弥生時代の稿で邪馬台国を取り上げる」ということを、皆さんは特に違和感なく受け止めたかもしれませんが、厳密には「邪馬台国は弥生時代に栄えた」という表現はよろしくありません。というのも、「弥生時代」というのは考古学上の分類であるのに対し、「邪馬台国」というのは魏志倭人伝に出てくる国名なので、歴史学上の問題です。
 文献に頼らず、出土した品から当時の人々の暮らしを読み解くのが考古学。
 文献を紐解いて当時の歴史を読み解くのが歴史学。
 紀元前10世紀から紀元後3世紀という時代は、考古学と歴史学の両方のアプローチで考えていくべき時代なのでしょう。してみれば、「邪馬台国は弥生時代に存在した」という表現は、2つの学問を混同したものともいえるし、上手く溶け合わせたものともいえるかもしれません。

「最古の農村」の座は福岡県福岡市の板付遺跡と佐賀県唐津市の菜畑遺跡とで争われている。これは板付遺跡の説明板。福岡郊外の住宅地にある。

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