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30年日本史00023【旧石器】藤村の神通力*

 平成12(2000)年2月。今度は小鹿坂(おがさか)遺跡(埼玉県秩父市)で、50万年前の地層から柱穴が発見されました。もちろん藤村の発見です。この発見は、
「原人にも建築技術があったのか」
との驚きをもって迎えられました。藤村の発見によって、従来の人類学で考えられてきた原人像よりも、はるかに進んだ技術を持った新たな原人像が浮かび上がってきたのです。
 それにしても、全ての発見が藤村新一によるもので、おかしいと思う人はいなかったのでしょうか。
 岡村道雄が平成12(2000)年10月24日に出版した「縄文の生活誌(初版)」(講談社)には、こんな記述があります。
「石器の発見は……藤村新一氏の独壇場で、みんなで石器探しに出かけても第一発見者はほとんど彼であった」
「前期・中期旧石器時代遺跡の発掘調査は、すべてといっていいほど彼の発見を契機としている。彼が遺跡を探し求めて歩き回る範囲がそのまま、前期・中期旧石器文化が確認された範囲と同じであるのも、彼の業績のすごさを証明している」
「彼は私に、自分は眼に疾患があると打ち明けたことがあるが、私たちには同じような褐色にしか見えない地層だが、ひょっとすると彼にはその微妙な色の違いが見えて、地層と地層の境、つまりかつて地表面であったある地層の上面を、鋭く見極めることができるのだろう。そしてそこに残された石器を、目ざとく発見することができるらしい」
 藤村の神通力を完全に信じきっている様子が窺えますね。いや、もしかすると藤村の捏造が過激化してきて、もう露見は時間の問題だと考え、この時期にあえて「私はすっかり騙されていた」と演出するために書いた文章かもしれませんが……。
 なお、この本が出版された僅か12日後に、「旧石器発掘捏造」という見出しが毎日新聞の一面に躍ることになり、この本は大幅な改訂を迫られることになります。
 さて、ここまで藤村の「業績」を詳細に述べてきました。そろそろ、「神の手」と呼ばれた男の化けの皮が剥がれていくさまをお見せしなければならないでしょう。
 それまで、学界でも藤村の発見を疑う声はあったものの、どれも「何かの間違いではないか」という疑念を口にする程度であって、
「藤村が故意に石器を埋めているのではないか」
とまで口にする人はいませんでした。実際には疑っている人もいたはずですが、中傷と取られてしまうことを恐れ、はばかったのでしょう。しかし藤村捏造説は、公には口にされなかったものの、噂としてはちらほら囁かれていたようです。
 捏造の発覚をめぐる物語は、平成12(2000)年8月25日、毎日新聞北海道支社報道部長、真田和義(さなだかずよし:1951~)のもとに、一通のメールが送られて来たところから始まります。

岡村道雄著『縄文の生活誌』。出版直後に藤村新一の捏造が明らかとなり、急遽「改訂版」を出す羽目になった。

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