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30年日本史00915【南北朝最初期】時行、南朝に帰順す

 金ヶ崎城で北朝方が敗れたと聞いて、全国あちこちの南朝方が息を吹き返します。
 そうした中で、南朝方に思わぬ武将が加わることになりました。北条高時の次男にして「逃げ上手の若君」の異名を持つ北条時行です。
 時行は鎌倉幕府滅亡時には7歳の少年でしたが、その2年後には「中先代の乱」を引き起こし、一時的に鎌倉を奪還しました。その中先代の乱も鎮圧され、どこに身を隠していたのか判然としませんが、延元2/建武4(1337)年のいずれかの時期に吉野の後醍醐天皇に使者を派遣して、何とこんなことを奏上して来ました。
「亡き父・高時は臣下としての道を弁えなかったため、帝の怒りをいただき破滅することとなりました。しかし、私は父・高時への咎めは道理にかなったものと考えており、全く帝をお恨みする気持ちを持っておりません。元弘の乱において義貞は関東を滅ぼし、尊氏は六波羅を攻め落としました。あの二人はいずれも勅命によって幕府を征伐したものでありますが、その後尊氏は朝敵となり、反逆によって世を奪おうと企てていることが明らかとなりました。
 そもそも尊氏があのように多くの兵を引き連れているのは、我が北条家が優遇した恩によるものです。ところが尊氏はその恩を忘れて帝に背いています。その大逆の甚だしさは多くの民の非難するところです。よって我が北条家は、敵をほかに求めるのではなく、ただ尊氏・直義らに対して恨みを晴らそうと思っています。このことにつき、帝の綸旨をいただきますならば、必ずや帝の正義の戦いを助け、帝の徳による治政を再び取り戻してご覧にいれます」
 なんと時行は、後醍醐天皇に仕えて尊氏を倒したいと言ってきたのです。時行にとっては南朝側も北朝側も親の仇のはずですが、あえて南朝に身を置こうとは、自らの居場所を確保しようと必死なようですね。
 この奏上を受けた後醍醐天皇は、
「犂牛の譬(りぎゅうのたとえ)、その理、しかなり」
と述べて大いに喜び、時行を恩赦する旨の綸旨を出しました。
 「犂牛の譬」とは論語に登場する孔子のお話です。様々な毛色が入り混じったまだら色の牛であっても、角の形さえよければそれは良い牛であることから、孔子は
「たとえ良い家格に産まれなくても、立派な才能の持ち主であれば良い人材である」
と述べたという故事です。北条高時という暗君の子であっても、時行自体は良い人材だということでしょう。

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