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どうする家康 第33回「裏切り者」

さて、小牧・長久手から数正出奔までが描かれましたね。急がないと大坂の陣まで辿り着けません。

意外な決着

小牧・長久手の戦いは極めてトリッキーな終わり方を迎えました。
長久手での戦闘では家康が圧倒的勝利を収めたのに、その後あれよこれよの間に、なぜか秀吉が勝ってしまうのです。

秀吉のやり口は、
「織田信雄の守る伊勢長島城にじわりじわりと迫り、和睦を結ぶ」
というものでした。
家康が秀吉と戦った大義名分は、
「秀吉は織田家を乗っ取ろうとしている極悪人だ」
というものでしたから、信雄が戦うのをやめた以上、戦う理由はなくなってしまいました

息子を誰か出せ

家康方から秀吉方に、養子という名の人質を出すことになりました。
家康は次男の於義丸(後の結城秀康)を送り込みます。

ちなみに現時点で産まれている家康の子供たちを整理しておきましょう。。
○瀬名との間に産まれた1男1女
長男信康: 切腹
長女亀姫: 奥平信昌に嫁いで新城(愛知県新城市)に住んでいる
○西郡局(ドラマ上はお葉)との間に産まれた1女
次女督姫:  北条氏直に嫁いで小田原(神奈川県小田原市)に住んでいる
○於万との間に産まれた1男
次男於義丸: 秀吉の養子となり秀康と名乗る。後に結城家に養子に。
○於愛との間に産まれた2男
三男長丸: 後の2代将軍徳川秀忠
四男福松: 後の松平忠吉

このうち次男・於義丸を秀吉の養子として送り込むことになったのでしたね。
於義丸は「秀吉」「家康」という2人の父を持ったので、一字ずつ取って「秀康」と名乗るようになります。
秀康は羽柴家からさらに結城家に養子に行き、「結城秀康」と名乗ります。

2度養子に行ったというと、たらい回しにされた感があるかもしれませんが、結城家を継いだことは恩賞の一種でした。
鎌倉時代から続く結城家は、現在の茨城県結城市を拠点とする名家でしたが、後継ぎがいなくなっていました。秀康はそこに当主として入ることで、莫大な土地を相続したわけです。

結城秀康は江戸時代が始まると初代福井藩主となります。
秀康の死後、その子孫は「松平」姓を名乗ることが許され、福井藩は(途中で血縁は途絶えてしまうものの)幕末まで松平家が治めることとなります。
今も福井城の前には結城秀康の騎馬像がありますね。

ちなみに於義丸が秀吉の養子として大坂に派遣されるに当たり、石川数正は息子の勝千代をその従者として送り込みます。勝千代はその後、石川康長と名乗って石川家を継ぐことになるのですが・・・。

真田昌幸、初登場

佐藤浩市が2年連続の大河出演でしたね。
去年の上総広常役もすごかったですが・・・今年もまたすごい迫力の真田昌幸役です。

なぜ徳川が真田と戦うことになったのかというと。

元々、真田家は武田信玄の家臣でした。
武田勝頼が滅亡した後は、武田勢のほとんどは徳川家に臣従しました。

ところが徳川は北条と和睦した際(このとき次女の督姫が北条氏直に嫁いだのでしたね)、北条方が提示した
「沼田城(群馬県沼田市)を北条に引き渡せ」
という条件を丸呑みしてしまいます。

真田昌幸にとっては、自身が苦労して勝ち取った沼田城を無償で引き渡せという我慢ならない話です。
真田方が沼田城引き渡しを拒否したため、家康は家臣の
・鳥居元忠
・大久保忠世
・平岩親吉
を派遣して真田の立て籠もる上田城(長野県上田市)を攻撃します。第一次上田合戦です。

ところがこの上田合戦に、徳川はボロボロに負けてしまうんですね。
上田城の奥深くに入り込んでしまった徳川軍は、両側から射撃を浴びせられて致命的な敗北を喫します。

徳川家にとって上田城は鬼門といってよいでしょう。二度も戦って二度とも大敗してしまうんです。二回目はもう少し後の話です。

数正出奔

真田が離反して、それを鎮圧することもできず、徳川家がバタバタとしていたときに、徳川家ナンバー2の家臣・石川数正が出奔し、秀吉家臣となってしまいます。

徳川家臣団たちが
「大坂まで秀吉に挨拶に行くか否か」
「さらなる人質を出すべきか否か」
について話し合っていましたね。言わば「秀吉の家臣となるべきか否か」という問題なのですが、徳川家臣団が断固として秀吉を拒絶しようと話し合っているときに、石川数正だけが
「秀吉に臣従すべし」
と説きました。

家臣団の中では、
「数正は秀吉にすっかり懐柔されてしまった」
「金を受け取っているのでは」
といった噂まで流れました。

なぜ石川数正だけが秀吉への臣従を説いたのか。おそらく大坂城をその目で見て、その天下人としての財力に圧倒されたからでしょう。

ヨーロッパ・アメリカを見て回った岩倉使節団メンバーが、留守政府メンバーと対立したり、イギリス留学経験を持つ伊藤博文が「攘夷は無理です」と進言したり、やっぱり現地を見た人間と見なかった人間とで意見が対立するのはどんな時代でもよくあることなんでしょうね。

数正スパイ説?

石川数正の出奔は、いろいろな説が後付けで描かれておりまして。
いわく、「数正と家康の仲はこじれてはおらず、実は秀吉の家臣になったふりをして秀吉方の情報を家康に送っていた」なんていう説もあります。
まあ、その方が話としては面白いですよね。

今回の大河も、どうもその説を採っている気がしますね。

ちなみに秀吉家臣となった石川数正は、松本(長野県松本市)の地を与えられ、松本城を築きます。
松本城は幸いにして戦火を逃れ、今もなお数正が建てた状態のまま残されています。戦国時代に建てられたまま残っている天守閣は、松本城と犬山城と丸岡城くらいでしょうか。

石川数正の死後、その息子・康長は関ヶ原で徳川方の味方につくのですが、それでも戦後は外様大名として扱われてしまいます。一度裏切った罪は重いんですね。
その後、1613年に発生した大久保長安事件というのがあり、それに連座して改易処分となります。要するにクビですね。

大久保長安事件というのは、大久保長安(おおくぼながやす)という徳川家臣が、佐渡金山などで獲れた金を大々的に着服していたことが発覚した事件です。このとき、石川康長もこれに加担していたと疑われたというわけですね。

家康が生きているうちに康長はクビになってしまったわけで、おそらく家康の中で石川家への恨みは尾を引いていたということでしょう。
そう考えると、「数正は実は裏切ってはいなかった」とするスパイ説は無理のある説のような気もしますね。

次回は秀吉・家康の壮絶な駆け引きに決着がつくはずです。
キーワードは結婚と大地震ですね。次回も楽しみです。

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