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どうする家康 第29回「伊賀を越えろ!」

家康の三大危機のラスト、「伊賀越え」の回でしたね。

伊賀越えと中国大返し

伊賀越えは3日間で堺から岡崎まで(正確に言うと伊勢・白子浜からは海路)の250kmを走破したという伝説の逃避行です。
後世に成功した人物については、後付けでいろいろな伝説が生まれるものです。実際以上に苦労したとのエピソードが作られがちです。毛沢東の長征しかり、秀吉の墨俣一夜城しかりです。
まあ実際の伊賀越えもそこそこ苦労はあったのでしょうが、誇張されている可能性もあるでしょう。

ちなみに秀吉の中国大返しは10日で230kmを走破したわけで、家康の「3日で250km」に比べると大したことがないと思われるかもしれませんが、家康が30人しか連れていなかったのに対して秀吉は大軍勢ですから(正確な数字は不明)、まあ秀吉の方が凄そうですよね。

そうそう、冒頭で大久保忠世が本能寺の変の動機について面白いことを語っていましたね。

「やれたからやった・・・までのことかと」

確かに戦国武将にとって、信長が僅か100名で本能寺にいると知ってしまったら、誘惑に負けちゃうかもですねえ。

伊賀越えと服部半蔵

殿、伊賀越えでまいりましょう。

「伊賀越えでは、伊賀出身の服部半蔵が頼りになった」
というエピソードをいろんな本で読んできたのですが、これもどこまで史実かよく分かっていません。
そもそも服部半蔵自身は伊賀生まれではなく、服部家のルーツが伊賀であったというに過ぎません。

「わしは服部家の者じゃ。服部半蔵正成。父は服部半三保長。ご存じであろう?」
「知らん」
「その息子じゃ」
「知らんやつの息子は知らん」
「服部家は伊賀の名家だと父から聞いておる!」
「そうでもねえ」

服部半蔵、かわいそうでしたねえ。
実は今年、私もこれと同じような状況に陥りました。

私のルーツはある離島にありまして、父からは
「我が家は元々は〇〇島の名家らしくてな。その島で廻船問屋として名を馳せたらしい」
と聞かされておりました。

ところが最近、その島に行って海運業をテーマとした博物館に行ってみたのですが、島の海運業の歴史を記した資料をいくら閲覧しても、私の先祖の名は載っていませんでした。私の高祖父(4代前)は
「地元では誰もが知っている有名人」
のはずだったのですが、誰一人知る人はおらず、全くの腰砕けでした。

人は自分のルーツについて盛った話をしてしまいがちなんでしょう。

甲賀の多羅尾光俊と伊賀の百地丹波

甲賀の多羅尾光俊は実在の人物で、家康の伊賀越えを助けた人物です。
いかにも怪しそうに描かれていましたが、史実においても全くの善意の人だったわけです。

一方、伊賀の百地丹波は江戸前期に創作されたとみられる人物です。
信長の伊賀攻めに抵抗した人物として描かれており、家康の伊賀越えに関係したとする史料はありません。

ところで伊賀と甲賀といえば、忍者の里として有名ですよね。

毎年2月22日は「ニンニンニン」で忍者の日とされており、両市は観光客呼び込みを狙って熾烈な争いを繰り広げています。

まず滋賀県甲賀市ですが、「忍者の日」には市役所職員が忍者の恰好で仕事をします。

出典:https://www.furusato-web.jp/topics/p45651/

何ともシュールな光景ですねえ。

しかし三重県伊賀市はその上を行っています。なんと、市議会を忍者の恰好で開催するのです。

出典:https://www.youtube.com/watch?v=_QMrvZt381U

忍者は子供受けも外国人受けも良いですし、絶好の観光資源でしょうね。両市とも頑張ってほしいです。

穴山梅雪討たれる

さて、やっとの思いで岡崎にたどり着いた家康を待っていたのは、穴山梅雪が討たれたとの知らせでした。

「三河物語」によると、穴山は家康を疑っていたため行動を共にすることを嫌がって、あえて別行動を提案したといいます。その結果穴山だけが討たれてしまったのです。
ドラマでは「穴山は家康を庇って死んだ」との脚色がなされていましたね。瀬名の理想を家康が引き継いでほしいとの思いからでしょう。これほどまでに穴山を良い奴として描いた作品を初めて見ました。

実際、家康が穴山をどう思っていたのかは分かりませんが、少なくとも嫌っていたわけではなさそうです。というのも、後に2代将軍徳川秀忠は、隠し子である保科正之の教育係に、穴山梅雪の未亡人であった女性を指名するのです。家康が穴山を嫌っていたとしたら、そのような人選はしないでしょう。

明智光秀討たれる

そしてもう一人の重要人物が今回クランクアップしましたね。
明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、近江坂本に戻って体勢を立て直そうとしたものの、その途上で落ち武者狩りの名もなき農夫に殺されてしまいます。戦国武将としてはあまりに不名誉な最期でした。

明智光秀の敗因は、信長・信忠いずれの首も得られなかったことでしょう。思ったほどに味方が集まらなかった原因はそこにあります。
適当な首を用意して偽装すればよかったのに、なぜそうしなかったのでしょう。クソ真面目な人だったのかもしれませんね。

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