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30年日本史00414【平安後期】保元の乱 平忠正と源為義の処刑

 さて、保元の乱は後白河方の一方的な勝利に終わりました。保元元(1156)年7月11日には早くも、論功行賞のための除目(人事異動)が行われました。
 まず、藤原忠通が氏長者に宣下されました。これにより、頼長派に属していた僧たちは所領を没収されることとなりました。
 平清盛は安芸守から播磨守に昇進しました。
 源義朝は、「右馬助から右馬権頭へ昇進」との除目が発表されましたが、義朝は
「命を賭けて戦ったのにこれでは勲功といえない」
と不服を申し立てました。これにより、義朝は左馬頭となりました。権頭の「権」が取れたわけです。「権」は代理という意味ですから、課長代理から課長に変わったようなものですね。
 では、敗者の側はどうなったかを見ていきましょう。
 近江に逃げていた源為義は、東国へ逃亡を図りましたが、熱病に倒れます。やむなく逃亡を諦め、比叡山で出家した後で都に出頭してきました。義朝は父の無事を喜んだと伝えられています。父とずっと反目していた義朝でしたが、父の死までは望んでいなかったのですね。
 一方、伊勢に逃亡していた平忠正も、都に投降してきました。こうして、源為義と平忠正は、そろって詮議の場に引きずり出されます。
 7月26日。公卿らの議論では、為義と忠正の刑は流罪に決しようとしていました。ところがここに異論を唱えたのが信西です。信西の意見はなんと「斬首」でした。
 公卿たちは動揺します。陣定(公卿らの会議)で死刑が決定されるのは、薬子の変で藤原仲成を処刑したとき以来のことで、実に350年ぶりのことです。
 この事実をもって、「平安時代に死刑はなかった」と解説している書籍を見かけるのですが、それは誤りです。そもそも殺人や強盗といった犯罪者の刑罰は陣定で決定する事項ではなく、それぞれの地方の国司が独自に死刑を決定し、執行していたのです。つまり、陣定で刑を審議するのは政治犯に限られており、その政治犯が死刑となるのは350年ぶりだったということです。公卿たちからすると、自分の決定で死刑判決を下すのには躊躇があったことでしょう。
 最終的に決断を下したのは後白河天皇でした。信西の主張通り、為義と忠正を斬首するというのです。
 7月27日。斬首は執行されました。清盛は叔父・忠正の斬首をためらわず執行したといわれています。一方、義朝が父・為義を斬首するに当たっては、為義が死の直前まで
「義朝が父を斬ったとして悪評が立つのでは」
と懸念していたため、義朝はひどく苦しみながら父を殺したといわれています。

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