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30年日本史00833【建武期】尊氏帰らず

 北条時行は敗北したものの、その後も神出鬼没といった具合に要所要所に現れては反乱を起こし、数十年もの間、足利兄弟を翻弄し続けます。
 「生きてさえいれば再起を図ることができる」というのは、当時の武士の美学に反する生き方かもしれませんが、それだけ時行の鎌倉幕府復興への思いは根強かったのでしょう。
 さて、中先代の乱は早々と鎮圧されましたが、後醍醐天皇の懸念したとおりのことが起こります。そう、尊氏が鎌倉から帰って来ないのです。当面は残党狩りの仕事があって簡単には帰洛できないことは理解できますが、それにしても帰りが遅いのです。
 その後、
「尊氏が北条の残党討伐のため諸国の武士を召集したり、焼失した幕府の跡に新居を構えたりしている」
との情報が京に入って来ました。まるで第二の幕府を立ち上げたような話です。後醍醐天皇は早く帰洛せよと何度も催促しますが、尊氏はこれを断り続けます。
 後醍醐天皇は尊氏を帰洛させるため大盤振る舞いに出ました。「従二位を授ける」というのです。大サービスですが、それでも尊氏は帰りません。
 「太平記」には、ここから尊氏が朝敵となっていくまでの流れが書かれているのですが、どうも一読しただけでは理解できない不思議なストーリーなのです。事の真偽はあとで検討することとして、とりあえずは「太平記」の記述を追いかけていきましょう。
 建武2(1335)年10月。尊氏は細川和氏(ほそかわかずうじ:1296~1342)を京に派遣し、
「北条の残党狩りで忙しく、しばらくは帰洛できない」
と伝えました。そこまでは予想通りです。
 しかし、このとき和氏は驚くべき内容の奏状を提出します。それは
「新田義貞追討をお許しいただきたい」
というものでした。その趣旨は次のとおりです。
・義貞の鎌倉幕府に対する蜂起は、天皇への忠誠からではなく幕府の使者を斬った罪を逃れるためにやむを得ず行ったものに過ぎない。
・鎌倉幕府打倒は我が息子(足利千寿王)の功績が大きい。その証拠に、千寿王の加勢を得るまで義貞は三度に渡って敗北している。
・尊氏が北条残党の追討にあたっている間、義貞は都で公家達と結託し讒訴している。
 あまりに唐突な印象ですね。一体、足利家と新田家に何があったというのでしょうか。

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