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30年日本史00477【平安末期】倶利伽羅峠の戦い

 寿永2(1183)年5月9日。先遣隊として今井兼平を越中に送り込んでいた木曽義仲は、いよいよ自ら本隊を引き連れて六動寺(富山県射水市)にやって来ました。翌10日には般若野の今井兼平軍と合流し、5月11日朝に倶利伽羅峠(石川県津幡町)へ向かって進軍を始めました。
 一方、平家は軍を二手に分け、維盛率いる本隊が砺波山(富山県砺波市)へ、清盛の七男・知度(とものり:?~1183)率いる別動隊が志保山(石川県と富山県の境)へと向かうこととしました。そして5月11日、維盛率いる平家軍の本隊が倶利伽羅峠へと差し掛かります。
 4万騎の維盛軍がやって来たというのに、これを迎え討つ義仲側はたったの5千騎です。
 維盛軍もまた、義仲軍が待機しているのを認識し、戦端を開くタイミングを窺い始めました。
 ここから、戦の天才・木曽義仲の伝説的な才覚が遺憾なく発揮されることとなります。
 義仲は昼の間にさしたる戦闘もせず、平家を油断させておいて、樋口兼光の隊をひそかに平家軍の背後に回り込ませました。そして平家軍が寝静まった夜間、義仲は角に火をつけた牛を坂から次々と落とします。猛突進してくる牛たちに驚いた平家軍は退却しようとしますが、その後方には樋口兼光隊が待ち構えており、退却する兵たちを次々と迎撃していったため、平家軍は大混乱に陥りました。
 平家軍は唯一敵のいない方向に逃げようとしますが、そこは峠の断崖となっており、平家軍は次々と谷へ転落していきました。こうして、義仲は自軍の8倍もの敵を壊滅させたのです。
 この「火牛の計」は中国の古典からの引用であり、明らかに後世の創作なのですが、あまりに有名なエピソードなので一応取り上げておきました。誇張があるとはいえ、義仲が自軍を上回る平家軍を壊滅させたのは事実なのでしょう。
 戦後、平家軍の中にいた斉明が義仲らに捕らえられ、処刑されました。火打城の戦いで源氏方を裏切ったあの斉明です。
 こうして、平維盛は富士川での頼朝との対決に続き、義仲に対しても大敗を喫しました。
 なお、この倶利伽羅峠の戦いと並行して「志保山の戦い」が進められていましたので、簡単に取り上げておきましょう。
 5月12日。主力軍の壊滅を知らない平知度は、志保山で義仲軍の副将である源行家と戦っていました。知度は戦いを優勢に進めていましたが、合流した義仲軍が急襲してきたため壊滅的な被害を受け、知度は戦死しました。さほど知られていない戦いですが、平家一門から初めて戦死者を出したという点では重要な事件かもしれません。

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