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30年日本史00834【建武期】尊氏朝敵となる

 足利家から「追討すべし」と言われてしまった新田義貞は、逆に天皇に対し尊氏追討を申請します。その申請の趣旨は次のとおりです。
・尊氏は名越高家の討死(00783回参照)を契機として天皇方に寝返ったに過ぎない。
・千寿王は当時3歳の幼児に過ぎず、その参陣は取るに足らない。
・直義は鎌倉に幽閉していた護良親王を殺害した。
 以上のことから
「尊氏・直義は逆賊として誅伐すべきである」
と義貞は主張しました。
 護良親王が殺害されたことを公卿たちはここで初めて知ることとなりました。これが事実なのかどうか議論していたところに、ちょうど南の御方(みなみのおんかた)という護良親王の侍女が帰洛して来て、護良親王が殺害されたことやそれを間近で目撃したことを涙ながらに伝えました。
 公卿たちは驚きおののき、この情報を後醍醐天皇に報告します。我が子を殺されたことを知った天皇の反応は記録されていませんが、さすがに激怒したことでしょう。
 護良親王殺害が真実だったと判明し、一挙に流れが固まりました。建武2(1335)年11月8日、陣定(公卿らの会議)で新田義貞に足利尊氏追討の綸旨を発することを決め、天皇もそれを決裁しました。
 余談ですが「南の御方」という侍女は軍記物語「太平記」にのみ登場する人物で、実在するかどうか疑わしい人物です。
 大河ドラマ「太平記」では、護良親王を殺害しようと淵辺義博が土牢に入っていく場面で、まだ危機を察知できない護良親王が
「南か……?」
と呼びかけるというセリフがありました。
 つまり、南の御方がドラマ上に全く登場していないのに「南」という人名だけがセリフ上に登場するわけです。余程の太平記マニアでもないと理解できないセリフだろうなとニヤッとしてしまいます。
 こうして、足利尊氏と新田義貞が互いに非難の応酬を繰り広げ、あれよあれよという間に尊氏は朝敵となってしまいました。太平記の中には、これまで足利家と新田家が険悪であるとの伏線は全くなかったのに、一体なぜこんなことになったのでしょう。

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