見出し画像

30年日本史00900【建武期】建武期総括

 建武期が終わり、やっと南朝と北朝が成立しました。ここで建武期を振り返っておきましょう。
 鎌倉幕府滅亡から、建武の新政とその崩壊までをお話ししてきました。西暦でいうと1333年から1336年までのたった3年間ですが、あまりにめまぐるしく情勢が変わるので、まるで数十年の歴史を語ってきたように思えます。
 思えば、後醍醐天皇が決起した元徳3(1331)年4月29日から、鎌倉幕府が滅亡する元弘3(1333)年5月22日までは僅か2年の戦いでした。2年かけて敵を倒した倒幕軍たちが、その後60年に渡って内輪揉めを起こすのが南北朝の動乱であり、建武期はその内輪揉めが始まる時期だというわけです。
 60年続く南北朝動乱のうち、まだ最初の3年間を語り終えたに過ぎませんが、この3年間こそが「北朝優位、南朝不利」が確立する、言わば南北朝時代の基礎を形作った時期であるといえます。
 初期の後醍醐政権下では、護良親王と足利尊氏とが激しく敵対しました。この対立関係は後醍醐の寵妾・阿野廉子に取り入った尊氏が護良親王を失脚させたことで決着がつきました。
 次に、その尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すことになるのですが、天皇への反逆の意思を強く持っていたのは尊氏本人よりも弟の直義でした。尊氏は当初、髻を切って武士の身分を捨ててまでも後醍醐天皇に帰順しようとしていたのですが、弟に引きずられて反逆者としての道を選ぶこととなります。
 その後は戦闘に次ぐ戦闘です。尊氏は一度は大敗して九州に落ち延びますが、勢力を盛り返して京に戻り、後醍醐天皇は再び比叡山への避難を余儀なくされます。そこでなんと、後醍醐天皇は義貞の了解なく足利方と和睦してしまうのでした。
 しかし足利方に幽閉された後醍醐天皇は、和睦を悔やんで吉野へと脱出し、南朝を作ります。
 ここまでの過程で、南朝方の主たる武将が次々と戦死してしまいました。
・結城親光 建武3(1336)年1月11日:尊氏による京都占領の際に戦死
・楠木正成 延元元/建武3(1336)年5月25日:湊川の戦いで戦死
・千種忠顕 延元元/建武3(1336)年6月7日: 叡山合戦で戦死
・名和長年 延元元/建武3(1336)年6月30日: 第二次京都合戦で戦死
 残っているのは北畠顕家と新田義貞くらいです。一方、北朝方は特段重要人物を失ってはいません。尊氏・直義・高師直はいずれも健在です。
 それでも後醍醐天皇自身はまだまだ諦めません。この圧倒的に不利な状況から南朝側がどのように戦闘を展開させていくのか、次回から見ていくことにしましょう。

この記事が参加している募集

#日本史がすき

7,374件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?