30年日本史00873【建武期】湊川の戦い 楠木正成の評価
楠木正成については、後世に徳川光圀が
「勝ち目のない戦と知りながら天皇のために忠義を尽くした」
として高い評価を与えました。湊川には楠木正成を祭神とする湊川神社が建てられ、そこに徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑があります。といっても光圀がそこまでやって来たのではなく、光圀の家臣である介三郎(すけさぶろう)こと佐々宗淳(さっさむねきよ:1640~1698)が光圀の指示を受けて建てたものです。介三郎は水戸黄門の「助さん」のモデルです。
この光圀の尊王思想こそが、幕末の倒幕運動の根拠の一つとなります。明治以降には皇国史観教育の一環として楠木正成が祀り上げられ、皇居前広場(東京都千代田区)や湊川公園(神戸市兵庫区)には大きな騎馬姿の楠木正成像が作られました。
この教育は大きな影響をもたらしました。太平洋戦争末期には、多くの軍人はもはや勝ち目がないと認識していたのに、「楠公(なんこう)精神をもって当たる」とか「湊川に赴く気持ちで」などと日記に書きつけているのです。上層部の不合理な意思決定に対して異を唱えることなく従うことが美徳とされたのです。
実際の楠木正成は、精神論を廃して最も合理的に勝利する方法を考える人物だったはずです。その正成の合理主義的な側面が全く認識されず、最後の敗北を予期して戦場に赴く場面ばかりが強調され、精神論の偏重に利用されたのは残念としか言いようがありません。
正成が立て籠もった赤坂城と千早城を持つ大阪府千早赤阪村や河内長野市は、「楠公さんを大河ドラマに」と題する誘致活動を行っているのですが、市民団体がこれに反対する活動を行っています。楠木正成は大日本帝国時代に皇国史観に利用された人物であり、そうした人物を美化すべきでないというのです。大河ドラマ誘致運動は様々な自治体で行われていますが、反対運動があるのは楠木正成だけではないでしょうか。
その楠木正成は、大河ドラマに1度だけ登場したことがあります。足利尊氏を主人公とする「太平記」です。
大河ドラマ「太平記」は、楠木正成を「平和を志す穏やかな人柄」と解釈した脚本で、これまでの「天皇の忠臣」というイメージを大きく覆すことに成功しました。正成を演じた武田鉄矢は、当初は忠臣のイメージの強い正成役と聞いて躊躇したものの、
「この作品での扱いは『河内の気のいいおっさん』ですから」
と聞いて出演を承諾したといいます。
徳川光圀が褒めそやしたせいで忠臣として祀り上げられ、歴史上の重要人物として一挙に浮上させられてしまった正成は、ある意味気の毒な人物かもしれません。
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