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30年日本史00447【平安末期】以仁王の令旨

 ここで、後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう:1151~1180)という人物を紹介しなければなりません。
 以仁王は後白河の子であるにもかかわらず、母が藤原成子(ふじわらのなりこ:?~1177)という権勢のない家の出身であったことから、皇位を継ぐどころか親王宣下すら受けられないまま、長らく放置されていました。
 高倉・安徳と平家の血を引く皇子ばかりが優遇され、藤原氏との血縁で産まれた自分は鳴かず飛ばず。そんな現状に不満が溜まったのでしょう。治承4(1180)年4月9日、以仁王は密かに「平家を追討せよ」との令旨(りょうじ:皇族による命令のこと)を発し、これを東国に届けるように命じました。
 東国には、古くは源義家に、最近なら源義朝に、それぞれ恩義を持つ武士が大勢います。きっと平家の世で官位を得られず不満をくすぶらせている者が多いはずだと、以仁王は考えたのです。
 この以仁王の令旨を届けるため、東国を行脚したのが義朝の弟に当たる源行家(みなもとのゆきいえ:?~1186)でした。行家は為義の十男で、当初は「義盛(よしもり)」と名乗っていました。新宮(和歌山県新宮市)で育ったので、「新宮十郎義盛」などとも呼ばれます。行家は山伏に姿を変えて東国を回り、こののち、源氏一族の重要人物に次々と接触して令旨を行き渡らせる役割を果たします。
 この以仁王の令旨は極秘事項とされていましたが、東国に広めていくうちに、当然情報は漏れます。5月15日、熊野別当・湛増(たんぞう:1130~1198)がこの令旨の存在を知ってしまいました。熊野本宮大社は平家の厚い援助を受けていますから、当然に平家方です。
 一方で、熊野本宮大社から程近いところにある熊野那智大社の法師たちは平家の恩恵にあずかっておらず、平家の息のかかった者だけが昇進できる現状に恨みを抱いていました。つまり熊野三社の内部で争いが起こるのです。
 熊野本宮大社の湛増らは3千騎で海岸に押し寄せます。これを迎え撃つのは熊野那智大社の法師たち2千騎です。
 いよいよ源平最初の戦いが始まりました。両軍とも矢を射かける音がやむことなく、また刀がキラリと光る様がまるで稲妻のようだったと記録されています。
 丸一日戦い続けた結果、勝利したのは熊野那智大社の方、つまり源氏方でした。
 湛増らは命からがら熊野本宮大社に逃げ帰ることとなります。

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