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30年日本史01021【南北朝前期】高師冬戦死

西国でも東国でも尊氏党が敗北してしまいました。それにしてもこの時代、東国関係の史料が少なすぎます。戦乱の日付も経過もよく分からない・・・。

 正平6/観応2/貞和7(1351)年2月25日。敗北して投降することとなった尊氏・師直・師泰のもとに甲斐国の僧侶がやって来て、さらなる悲報をもたらしました。甲斐国に逃亡した高師冬が1月17日に自害に追い込まれ、関東はほぼ直義党が制圧したというのです。ここで関東の情勢に目を転じてみましょう。
 師冬は師直から見てだいぶ年下の従弟に当たり、師直の養子として可愛がられていました。当初は足利基氏の執事として鎌倉に在所していたのですが、上杉能憲や石塔義房に追われ、甲斐国に逃れたのでしたね(01006回参照)。
 これ以降、上杉の軍勢はますます増え、師冬の味方はどんどん減っていきました。師冬は甲斐国須沢城(山梨県南アルプス市)に籠もって戦います。
 上杉方の攻め手の大将は諏訪祝部(すわほうり)という実名不明の人物です。8千騎で押し寄せ、三日三晩戦いましたが、敵味方とも多くの死傷者を出しました。須沢城を攻めかねた諏訪祝部は「正面から戦うのはやめよう」と言って、山の後ろに回って高所から攻め始めました。
 正面と後方の両方から攻められ、さすがの須沢城も陥落寸前となります。そこに、攻め手側にいた諏訪五郎(すわごろう:?~1351)が、突然
「もともと私は執事殿(高師直)に烏帽子親を務めていただき、父子の契りを結んだ身だ。情勢が悪くなったからといって、父を裏切るような不義をなぜできようか」
と言って、諏訪祝部に暇乞いをして須沢城へと入っていき、師冬の味方をし始めました。なかなか男気に満ちた人物です。できれば最初から師冬の味方をした方が良かったと思うのですが。
 そのうちに城の後方が破られ、敵が四方から城内に入ってきました。師冬も諏訪五郎も、共に手を取って腹を掻き切りました。城内で自害した者は64人に及びました。こうして関東・東北は残らず直義党となりました。
 九州でも直義党の直冬が席巻していますし、四国でも支配者たる細川顕氏が直義党に下りました。2月12日には陸奥国で尊氏党であった奥州探題・畠山国氏(はたけやまくにうじ:?~1351)が直義党の吉良貞家(きらさだいえ)に敗れて岩切城(仙台市宮城野区)で戦死したとの情報もあり、もはや全国が直義の手に落ちそうな状況です。
 師冬自害の知らせを聞いた師直は養子の死を悲しみつつ、
「もはや頼るべき場所もない。逃げても無駄であろう。命が助かる方法は出家しかない」
と言って、兄弟とも小刀を使って剃髪し、出家しました。
 しかし人々は、
「いくら出家しても、これまでの罪は重すぎる。きっと命は助からないだろう」
と悪口を言い合ったといいます。

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