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30年日本史00906【南北朝最初期】金ヶ崎城の戦い 尊良自害

 義貞・義助兄弟がいない今、金ヶ崎城の大将は義貞の長男・新田義顕です。兵たちが義顕のもとへやって来て、
「城中の兵たちは飢えのため、矢を射ることすらできない状態です。敵は既に第二の城門を破っており、どう考えても勝てるとは思えません。親王を小舟に乗せ、どこぞやの港へでも逃がすべきです。他の者はしばし戦った後、ここに集まって自害いたしましょう」
と述べました。その後、彼らは立ち上がることすらできないほど弱っていたため、城門の脇にあった死体の腿の肉を一口ずつ食べて力を養ったといいます。
 義顕は尊良親王の前に行き、
「もはやこれまでと思われます。私たちは武家に生まれましたので、自害しようと思いますが、さすがの敵も上様の命まで取るようなことはありますまい」
と述べましたが、尊良親王は
「帝が都へ戻られたとき、私は上将軍となり、そなたは重臣となった。重臣がいなくて上将軍だけがいるなどということができようか。私はここで死んで、あの世で仇を取ろうと思う。自害とはどのようにするものなのか、作法を教えてくれ」
と答えます。義顕は涙を抑えて、
「このようにいたすものでございます」
と言うやいなや、刀を脇腹に突き立ててかき切り、うつ伏せになって死にました。
 尊良親王はその刀を取って、袖で刀の柄をきりきりと巻いて、それを胸に突き立てて、義顕と同様、自害を遂げました。城主の気比氏治を始め、将兵たち300人も次々と腹を斬りました。
 尊良親王の首が京に送られて来たと聞き、親王の妻・御匣殿(00762回参照)は嘆き悲しんで病に伏し、そのまま死去したといいます。二人の悲恋は最後まで悲劇的でした。
 気比氏治の子・斉晴(なりはる:?~1337)は、泳ぎが達者であったことから、恒良親王を小舟に乗せて脱出させる任務を命じられました。櫓も櫂もない中で、斉晴は綱手を自分の腰紐に結び、海上を泳いで舟を蕪木(かぶらき:福井県南越前町)の港まで誘導しました。
 その後、恒良親王を杣山城まで連れていけばよいところを、斉晴は
「城中の人々が残らず自害したのに、自分一人だけ逃げて生き永らえてしまうと、世間の笑い者になる」
と考え、親王を漁師の家に預けて
「この方を杣山城にお連れしてくれ」
と言い含め、元の海を泳いで金ヶ崎城に戻り、そこで壮絶な切腹を遂げたのでした。

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