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30年日本史00377【平安後期】後三年の役 源義光と「入調曲」

 後三年の役に関連してもう一つ有名なのは、義家の弟に当たる源義光(みなもとのよしみつ:1045~1127)の話です。
 義光は勇猛果敢な武士として知られていましたが、音楽の才能についても認められており、豊原時光(とよはらのときみつ)という公家に弟子入りして笙(しょう)を学んでいました。時光はこの弟子を相当高く評価しており、名器「交丸(まじえまる)」を与え、「入調曲(にっちょうきょく)」と呼ばれる秘曲を授けました。
 時光には時秋(ときあき:1100~?)という子がおり、本来ならば交丸も入調曲も我が子に継がせるのが通常であるところを、あえて義光に継がせたわけです。義光には相当な才能があったということでしょう。
 後三年の役が始まると、義光は兄・義家を支援するべく、軍勢を率いて京を出て、東国へと向かいました。すると近江国蒲生郡(滋賀県東近江市)の鏡の宿に着いたところで、袴姿の男が現れました。見ると、師匠である豊原時光の一子・時秋でした。
 驚いた義光は、時秋に何の用かと尋ねますが、時秋は
「ただお供をいたしたい」
としか言いません。義光は、自身が戦いに向かおうとしていることを伝え、京へ戻るよう説得しますが、時秋は応じません。
 そのまま時秋はずっとついてきて、遂に相模国足柄山(神奈川県南足柄市)までやって来ました。
 義光は引き続き危険を訴え、時秋に帰京するよう説得しますが、時秋は帰ろうとしません。
 話しているうちに、義光ははっと時秋の真意に気づき、人払いをしてから一枚の文書を取り出しました。それは「入調曲」の書かれた楽譜でした。
 義光は
「時秋殿が私を追って来たのは、この曲のためだったのだな。私は生きて帰れるかは分からぬ身。この秘曲は時秋殿がしっかりと受け継ぎ、笙の道を後世に残してくだされ」
と言って、その場で笙を取り出し、秘曲を伝授しました。
 伝授を受けた時秋は京に戻り、やがて笙の道を究め、多くの弟子に恵まれたといいます。
 良い話ですが、このエピソードは恐らく後世の創作でしょう。というのも、後三年の役が行われていた期間は永保3(1083)年から寛治元(1087)年なのですが、一方で時秋が産まれたのは康和2(1100)年であり、矛盾があるのです。

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