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30年日本史00495【平安末期】一ノ谷の戦い 三草山の前哨戦

 寿永3(1184)年1月26日。後白河法皇は頼朝に対し、平家追討の院宣を発しました。義仲が退場し、残るは平家と鎌倉方との対決というわけです。
 2月3日には、平家との戦いに敗れた源行家が都に戻り、今度は義経に接近し始めました。行家は頼朝と仲違いして飛び出した経験を持っていますから、義経に対しても頼朝の悪口を言いまくって対立を煽ろうとしてきます。
 さて、ここからは2月7日の一ノ谷の戦いについて説明していかなければなりません。一ノ谷の戦いはとにかくエピソードが満載で、時間がかかりそうですがお付き合い願います。
 平家方のトップは清盛の三男・宗盛ですが、宗盛は棟梁として政務を担当しており、合戦の総大将は四男の知盛です。平家物語は、宗盛をとにかく無能で親の七光りだけで出世栄達した小人物として描き、一方で知盛を知勇に長けた人物として描いています。
 2月5日。摂津国一ノ谷(兵庫県神戸市)において源範頼率いる源氏軍と平知盛率いる平家軍が向かい合って布陣し、戦闘の始め時を窺っていました。範頼・義経らは軍議を行い、「範頼が主力軍として敵と向き合い、義経が搦手(からめて)として敵の背後に回って死角を突く」という作戦が決定されました。
 一方、平家方もまた、搦手が背後を突こうとしていることを知り、それを防ぐため平資盛らを三草山に布陣させました。平家の背後を突くために、義経たちはこの三草山を通るはずだからです。
 しかし義経たちの素早さは、資盛の予想を超えていました。義経が土肥実平を呼び、
「今晩夜討ちをかけるのがよいか、明日の合戦とすべきか」
と問うたところ、実平は
「明日の合戦となれば、平家の軍勢はさらに増えていくでしょう。数の上で有利な今こそ、夜討ちをかけるべきです」
と進言し、それを聞いた義経はその日の夜に進撃したのです。
 夜討ちを予想していなかった平資盛軍は、武装を解除して休息していたため、夜討ちにあわてふためいて敗走しました。こうして前哨戦はあっけなく義経方の勝利となりました。
 一ノ谷の海岸沿いに布陣する平家方は、東側で範頼軍と対峙していたわけですが、西側に義経が回り込むことが可能となってしまいました。このままでは挟み撃ちにされてしまいます。何らかの手を打たなければなりません。
 ところが、ここで都からやって来た一通の書状が平家を油断させ、何らの手を打たないまま2月7日の開戦を迎えさせてしまうのです。

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