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30年日本史00482【平安末期】義仲入京

 平家の都落ちから1週間後の寿永2(1183)年7月28日。比叡山側(滋賀県側)から義仲が、宇治橋側(奈良県側)から行家が、それぞれ入京してきました。
 鞍馬寺に隠れていた後白河法皇は両名を召し出し、「平家が無断で三種の神器を持ち去った。取り返せ」と言って追討の宣旨を下しました。こうして平家は朝敵となりました。
 このように、都から落ち延びるときは「治天の君」を連れて行かなければ朝敵となってしまいます。平家にとって後白河法皇の連れ出しに失敗したことは大失策でした。
 8月6日には後白河法皇により平家一門が解官され無官となりました。安徳天皇や平氏政権の正当性はこうして否定されていったのです。
 そうした中、平家を更なる悲劇が襲います。8月17日に平家一行は大宰府に到着したのですが、宇佐(大分県宇佐市)の荘官であった緒方維義(おがたこれよし)が、平家に対して九州からの退去を命じたのです。
 緒方維義はかつて平家の推薦によって被官したはずの人間でした。平時忠が、かつての平家からの恩義を説いて翻意を迫りましたが、緒方維義は「昔は昔。今は今だ」と冷たくあしらい、平家を追い払いました。平家はやむなく九州を出て瀬戸内に退きます。
 このとき、重盛の三男・清経(きよつね:1163~1183)は、平家の将来を悲観して入水自殺を遂げました。この先、平家一門は次々と入水を遂げますが、これがその始まりでした。
 さて、京はもはや義仲軍の占領下にありましたが、その義仲軍の評判は早くも地に堕ちていました。木曽育ちで「戦争とは略奪だ」という観念を持った義仲軍の兵たちは、都において民家を襲撃して食糧を次々と略奪していったのです。京の民たちは「これでは平家の方がましだった」と囁き合いました。
 問題は義仲軍の兵たちだけではありません。義仲本人も、都での振る舞い方を知らず、公家たちをひどく怒らせてしまいます。
 ある日、義仲を猫間中納言こと藤原光隆(ふじわらのみつたか:1127~1201)が訪ねてきました。猫間というところに住んでいる中納言なので、「猫間殿」と称します。
 取り次ぎの者が「猫間殿が参られました」と述べると、義仲は
「猫が人に会いにきただと?」
と笑い始め、面会が始まった後も事あるごとに「猫殿」と呼びかけ、大笑いしました。
 さらには、昼時だからということで義仲は光隆に飯を出したのですが、椀が汚く、光隆はとても食べる気になれません。義仲がしつこく薦めるので、仕方なく食べているふりをしましたが、義仲は
「猫間殿は猫のように小食だ」
と言ってまたまた大笑いします。
 このような無礼な言動が重なり、義仲は京の公家たちの信頼を失っていきました。

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