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30年日本史00534【鎌倉初期】大原御幸

 親族を失った建礼門院徳子が、大原(京都市左京区)の寂光院で余生を過ごしたことについては既に述べました。文治2(1186)年の春、その徳子を後白河法皇が訪ねてくる「大原御幸」が平家物語の締めくくりの一節です。
 徳子は思いがけない客の来訪に戸惑いつつ、対面しました。語り合ううちに、法皇が「これほど変わり果てた姿を見ると悲しみでやり切れない」と憐れむと、徳子は「私は生きながら六道(人間が輪廻転生する6つの世界)を見ました」と人生を振り返り始めました。
「私は清盛の娘として生まれ天皇の母となり、全てが思いのままでした。何の不自由もない贅沢な生活を過ごし、天上界もこのようなものかと思うほどでした。(天上道)
 ところが寿永2年、木曽義仲に都を追われることとなりました。人間界には愛する者と別れる愛別離苦、憎き者と出会う怨憎会苦の苦しみがありますが、大宰府では憎き緒方維義に追い払われ、その後愛する清経が入水したのは深い悲しみでした。(人間道)
 浪の上で朝から晩まで暮らしていて、食事にも事を欠く有様でした。たまたま食べ物があっても水が無くては調理できず、目の前にたくさん水があっても海水なので飲むことができないことは餓鬼道の苦しみかと思いました。(餓鬼道)
 一ノ谷で一門の多くが死んだ後は明けても暮れても戦いの鬨の声が絶えることはなく、親は子に先立たれ、妻は夫に別れ、沖の釣り船を見ては敵かと脅え、遠方の松の白鷺を見ては源氏の白旗かと心配する日々が続きました。(修羅道)
 壇ノ浦の戦いで二位尼が泣く泣く先帝を抱いて海に沈みました。その様子は目もくらみ気を失ってしまいそうなほどで、帝の面影は忘れようとしても忘れられず、悲しみに耐えようとしても耐えられません。後に残った人々のわめき叫ぶ声は、地獄の罪人のようでした。(地獄道)
 武士に捕らえられ都に戻る途中の明石浦(兵庫県明石市)で、先帝と一門が立派なところに威儀を正して居並んでいる夢を見ました。『ここはどこでしょうか』と尋ねると、二位尼らしい声が『龍宮城』と答えました。『素晴らしいところですね。ここに苦しみはないのでしょうか』と尋ねると、『龍畜経の中に書いてあります。よくよく後世を弔ってください』と言われて目が覚めました。(畜生道)」
 法皇は「これほどはっきりと六道を見たという体験は非常に珍しいことです」と涙を流しました。夕陽が傾き寂光院の鐘が鳴り、後白河は名残りを惜しみつつ寂光院を後にしました。
 一行を見送った徳子は「先帝と一門の魂が正しい悟りを開き、仏果が得られますように」と祈りました。その後、徳子が極楽往生の本懐を遂げたと語り、平家物語は全12巻の長大なストーリーを結んでいます。

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