30年日本史01030【南北朝前期】観応の擾乱第二幕始まる
いよいよ、5ヶ月間の平和が破られ、観応の擾乱の第二幕が始まろうとしています。
太平記はその原因について、
「尊氏・直義兄弟には何らの隔たりもなく、お互いに不満も全くなかったが、家臣たちは他人を蹴落として利益を得ようとする者ばかりだった。そのため、石塔・上杉・桃井といった直義党は尊氏党へ讒言を企て、一方で仁木・細川・土岐・佐々木といった尊氏党は様々な謀略によって直義党を失脚させようと企てた。災いはこうした利欲から始まるものである」
と記述しています。家臣らが悪かったというのです。
その後の状況についても、太平記の記述を元に説明しましょう。
仁木頼章は病と称して有馬温泉に、弟の仁木義長は伊勢に、細川頼春は讃岐に、佐々木道誉は近江に、赤松貞範は播磨に、土岐頼康は美濃に、それぞれ帰国してしまいました。いずれも合戦の用意のためです。
正平6/観応2(1351)年7月30日。直義側近の石塔・桃井の二人が、
「奴らは皆、自分の国へ逃げ帰って謀叛を起こすようです。きっと将軍(尊氏)か宰相中将殿(義詮)のご意向なのでしょう。このまま京にいては討たれてしまいます。今夜にでも北国へお逃げになってください」
と直義に薦めたため、直義はその日の夜、慌ただしく京を出て越前に逃亡しました。
夜が明けた後、義詮は尊氏の屋敷に参上し、
「昨夜の京中の騒ぎはただ事ではありません。下って行った兵の数は相当なものですから、この後、京に攻め寄せるつもりかもしれません」
と述べますが、尊氏は全く騒がず、
「運は天が決めることだ。何を用心する必要があるか」
と言って、短冊を取り出して心静かに歌を詠み始めました。全く緊張感がありません。
その頃、金ヶ崎城(福井県敦賀市)に到着した直義は、1万3千騎になっていました。その後も軍勢は徐々に増えて6万騎にまでなりました。このとき、この大軍を率いて京に攻め寄せれば尊氏に勝てたはずですが、直義軍は実りのない長い議論をして、数日を無駄に過ごしてしまいました。
と、こんな具合で太平記は
「尊氏党の者たちが、直義を狙い撃ちしようと準備した。それを悟った直義は出奔したが、尊氏は全く戦うつもりはなかった」
と記述しています。ところが、史料から判明した事実は、少々異なるようなのです。