30年日本史00931【南北朝最初期】尊氏、征夷大将軍となる
新田義貞が戦死した翌月の延元3/建武5(1338)年8月11日。光明天皇は足利尊氏に征夷大将軍の号を宣下しました。
尊氏は建武式目を制定した時点で、源頼朝と同様に幕府を開く(武家政権を開設する)ことを決意していたものと思われます。既に実質的には武士団を統率する立場にあったわけで、あとは征夷大将軍の宣下を受けるだけという状況でした。
恐らく宿敵・新田義貞が戦死したとの情報が入ったことから、これを契機として満を持して将軍になろうと思ったのでしょう。義貞が死んで、南朝の主だった将軍は全員いなくなりました。残されたのは脇屋義助のほか、義貞次男の新田義興や正成嫡男の楠木正行といったまだまだ幼い者たちですから、もはや北朝の勝利は疑うべくもない……と尊氏のみならず当時の人々は皆思ったことでしょう。
ところがこの後、予想に反して南朝はしぶとい粘りを見せ、一時的には京をも占領して北朝を圧倒する力を見せることとなるのです。
さて、室町幕府の成立時期について
・建武式目制定: 延元元/建武3(1336)年11月7日
・足利尊氏の征夷大将軍就任: 延元3/建武5(1338)年8月11日
・足利義満の室町御所への転居: 天授4/永和4(1378)年3月10日
の3つの説があることを以前述べました(00898回参照)。この中で最有力説は「征夷大将軍就任時点」とされています。
かつての歴史学では、幕府を開くといえば「征夷大将軍に就任したとき」と相場が決まっており、鎌倉幕府の成立時期も頼朝が将軍に就任した建久3(1192)年といわれていましたが、その後
「征夷大将軍就任=幕府開創という概念はこの頃まだできていない」
との指摘があり、どの段階で武家政権が出来上がったとみるべきか再検討がなされ、教科書における鎌倉幕府成立年代は文治元(1185)年に改められました。
にもかかわらず、教科書における室町幕府成立年代は尊氏が将軍に就任した延元3/建武5(1338)年のままなのです。こちらは将軍就任を重要な画期とみているわけです。
というのも、鎌倉幕府が150年に渡って続いたことで、征夷大将軍という地位が意味するものが頼朝の時代と尊氏の時代とでは大きく変わっていました。尊氏やその家臣たちが最も「幕府開創」を意識したのは間違いなく征夷大将軍に就任したときのはずなのです。「将軍就任をもって室町幕府開創」とする理解が最適なように思われます。
これ以降、尊氏は自らの子孫を将軍に据えて、鎌倉幕府と同様の政権を築こうと意識したと考えられます。
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