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30年日本史00874【建武期】湊川の戦い 坊門清忠の評価

 楠木正成が神のごとく祀り上げられた一方で、その正成を死に追いやった佞臣として悪名を轟かせてしまったのが坊門清忠です。
 坊門は「帝が1年に2度も比叡山に避難するのは体面が悪い」という理由で正成の献策を葬ったわけで、いわば敗戦の原因を作ってしまった公卿なわけですが、これは「太平記」の創作であって史実ではないとの見方もあります。というのも、「太平記」のうち最も原本に近いとされている「西源院本」には、坊門が正成の策に反対したとの記述はないのです。正成戦死の悲劇性をより高めるために後世に付け加えられた可能性は否定できません。
 正成を絶賛した徳川光圀の弟子・安積澹泊(あさかたんぱく:1656~1738)は、坊門について
「讒言によって名将が死ぬ。これでは国政がうまくいかないのも当たり前だろう。孔子は『口先だけの人物が国家を破滅させてしまうのが憎い』と言ったが、まさにそのような輩である」
と厳しく非難しています。ちなみに安積澹泊とはまたの名を安積覚兵衛(あさかかくべえ)と言って、テレビドラマ「水戸黄門」に登場する「格さん」のモデルです。
 さらに司馬遼太郎によると、「太平記」の坊門のエピソードは、大日本帝国に思わぬ影響をもたらした可能性があるといいます。司馬は
「この逸話は昭和前期の統帥権干犯問題において、軍部が独立すべき理由の先例として用いられたのではないだろうか」
との推測を述べており、つまり「非軍人が軍事に口を出すとロクなことにならない。よって非軍人による干渉を禁止すべし」という論理につながったのではないか、と指摘しているのです。
 現代においては「文民統制(シビリアンコントロール)」と言って、軍事についても文民(非軍人)が統制を加えるのが当然のこととされていますが、大日本帝国においては
「統帥権は軍人がつかさどるものであって、文民が干犯してはならない」
という考えで軍が運営されていたのです。そのため、軍の活躍の場を広げたがる軍人が文民からの干渉を拒絶し、ほしいままに戦線を拡大し、大日本帝国は戦争への道を突き進んでしまいました。
 「文民が軍事作戦立案に干渉したために敗北した」という例は、他にも
・保元の乱における藤原頼長
・大坂の陣における淀殿
といった例があるのですが、大日本帝国において最も影響を与えたのは坊門清忠の逸話かもしれません。「太平記」自身が統帥権独立の思想をはらんだ書物とは思えませんが、読む者の解釈の仕方によっては国政に大きな影響を与えてしまうこともあるのでしょう。

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