30年日本史00011【旧石器】発掘成功
杉原は、あらかじめ芹沢から見せられていた岩宿出土の石器について
「これは石器です。これは自然石でしょう」
などと逐一コメントした上で、
「とにかく現地を見たいと思います。まだ登呂についても会議が続いているので、三日後でいかがですか」
と相澤に尋ねました。こうして、話はあっという間に進み、昭和24(1949)年9月10日に岩宿に行き、翌9月11日に発掘を行うことが決まったのです。
この日、相澤は眠れませんでした。桐生の千網谷戸遺跡では、東大グループが発掘している最中でした。その目と鼻の先にある笠懸村の岩宿に、杉原率いる明大グループが乗り込んでくる……。期待よりも不安の方が大きかったことでしょう。
9月10日午後2時過ぎ。相澤は東武線浅草駅で明大考古学研究室の面々を待ちました。やって来たのは、杉原荘介助教授と、学生の芹沢長介、同じく学生の岡本勇(おかもといさむ:1930~1997)の3名でした。明大の3名は桐生に一泊し、いよいよ翌11日の朝から岩宿での発掘が始まります。
この頃、相澤の家によく出入りして発掘を手伝っていた高校生が二人いました。
・堀越靖久(ほりこしやすひさ:1931~1997)
・加藤正義(かとうまさよし:1932~)
相澤の要請を受け、この二人も発掘に参加することになります。
つまり、杉原、芹沢、岡本、相澤、堀越、加藤の総勢6名ということになります。日本史資料集などに載っている岩宿遺跡の発掘写真には、この6名が並んで写っています。
午後まで掘っても、特に何も出てきません。みんな次第に無口になり、諦めムードが漂う中、杉原はみんなを叱咤激励しました。
「あともう少しだ。五時まで頑張ろう」
当時高校生だった加藤氏は、
「えー、まだやるのか、嫌だなあと思ったことを覚えています」
と回想しています。
午後4時を過ぎると雨が降り始め、ますます厳しい環境となってきました。午後4時50分。もう誰もが諦めていたそのとき、杉原のスコップにカチッという音がしました。
「出たぞ、石器が出たぞっ!」
杉原の手に乗せられたのは、楕円形のハンドアックス(切る、掘るなどに使われる斧)でした。
杉原は旅館に戻ると、「ハックツニセイコウ タダナミダノミ」と明治大学に打電します。相澤の発見は、杉原の再発見によって裏付けられたこととなります。
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