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30年日本史00837【建武期】手越河原の戦いと佐々木道誉投降

 建武2(1335)年12月5日。新田義貞が手越河原に陣を張る敵軍を見渡すと、予想以上の大軍でした。しかし義貞は配下の兵たちに
「敵の多くは戦意を喪失した者どもだ。ひるむことはないぞ」
と呼びかけ、突撃させました。
 なかなか決着がつかないまま7時間が経過しました。既に17回もの激闘が行われ、両軍とも大きな被害が出ています。
 日が暮れた後、義貞は弓の名手たちを集めて藪の中からこっそり敵陣に近づかせ、矢を浴びせました。足利軍はこの奇襲を予期していなかったらしく、甚大な被害が出してしまい、たまらず退却を始めました。
 敗北を悟った直義は自害を決意しますが、家臣の今川範国(いまがわのりくに:1295?~1384)に必死に説得され、逃亡して再起を図ることとしました。直義を新田軍の追っ手から無事に逃れる時間を稼ぐため、家臣の淵辺義博が敵陣に突っ込んでいき、壮絶な戦死を遂げました。
 逃げ遅れた足利軍の兵たちは、次々と新田軍に投降して行きました。義貞はこれを処刑することなく受け入れ、新田軍の数は膨れ上がっていきます。
 その投降兵の中に佐々木道誉という大物の姿もありました。佐々木道誉といえば、元弘の乱において後醍醐天皇流罪の護送や北畠具行の処刑を担当した鎌倉幕府の御家人です。それなのに史料を見るといつの間にか建武政権で雑訴決断所(現代でいうところの裁判所)の職員として名が載っているのです。経緯は分かりませんが、どこかの段階で鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇方に加わり、さらに建武政権下で尊氏に接近していたのでしょう。
 佐々木道誉はその破天荒な生き方ゆえ「婆娑羅大名」と呼ばれています。「婆娑羅(ばさら)」とは身分秩序や従来的な権威にとらわれず、奢侈で派手な振る舞いを好むことをいいます。大河ドラマ「太平記」では、道誉は華美な服装でひたすら打算と裏切りを繰り返す捉えどころのない人物として描かれ、さらには優柔不断な尊氏に鎌倉幕府を裏切れと、次いでは後醍醐政権を裏切れと迫るという役割を担っていました。実際に尊氏が後醍醐政権を裏切るよう道誉がそそのかしたかどうかは分かりませんが、晩年の尊氏が道誉を厚く信頼していたことは事実です。
 とりあえず今は、佐々木道誉という人物が足利方から新田方に寝返ったこと、そして簡単に人を裏切る人物であることを記憶にとどめていただければと思います。

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