見出し画像

30年日本史00016【旧石器】名誉を賭けた戦い*

 もはや日本史の通史とは何の関係もないことですが、せっかくなので、相澤千恵子氏による夫の名誉を賭けた戦いを、最後まで見ていきたいと思います。
 平成11(1999)年。郵政省が岩宿遺跡発掘50周年の記念切手を発行すると発表しました。ところが、その解説文を見た千恵子氏は驚きます。どこにも、発見者・相澤忠洋の名がなく、岩宿遺跡は明治大学が発掘したとしか書かれていないのです。発掘時の新聞報道とまるで同じ事態が再来したのです。
 千恵子氏は郵政省に対し、配達証明付き郵便で抗議文を送りました。
 10月21日。配達証明を受け取った千恵子氏は、これまた驚きます。宛名を「相澤忠洋記念館 殿」と書くべきところ、縦書きで「館念記洋忠澤相 殿」と書かれていたのです。
 なぜこうなってしまったのか。千恵子氏が使った封筒は、右から左に「相澤忠洋記念館」と書いたスタンプが押されており、それを見た東京中央郵便局の局員が、右から左に読むことが分からず、左から右に読んでしまったのです。
 千恵子氏は郵政省に電話をして、
「あなた方の職員はロボットですか? 何も考えず丸写しするとはまるでロボットの仕事ですね」
と述べました。郵政省側は、
「このような配達証明を送ってしまったのは我々の恥だから、回収させてくれ」
と言ってきましたが、千恵子氏はそれを断り、なんと配達証明書のコピーを引き延ばして記念館に展示し始めます。
 困った郵政省側は、(おそらく配達証明書の宛名の一件も一因となって)切手の解説文を修正することに応じました。こうして解説文には、岩宿遺跡の発見者・相澤忠洋の名が載ることになったのです。
 さて、相澤の功績が杉原に奪われたというエピソードを紹介して来ましたが、現在は杉原荘介よりも相澤忠洋の名前の方がはるかに知られていますよね。事実、私の手元にある日本史用語集を見ますと、11社の高校日本史Bの教科書全てに相澤の名は記されているようです。
 岩宿遺跡発見の際には報道されなかったはずの相澤の名の方が有名になったのはなぜか。それは相澤の回顧録「岩宿の発見」(講談社文庫)が昭和45(1969)年度青少年読書感想文コンクールの課題図書になったからなのです。
 専門教育を受けず、苦学して独学で考古学を学び、世紀の大発見を成し遂げた相澤の成功譚はベストセラーとなり、多くの子供たちに勇気を与えたのです。
 専門教育を受けておらず大学に所属しない研究者でありながら、日本の考古学を塗り替えた相澤。彼の発見により日本の考古学は新たなステージに入ったといえるでしょう。

相澤忠洋氏の名を全国に知らしめるきっかけとなった自伝。貧しい旅芸人の子が苦学して大発見を成し遂げたサクセスストーリー。シュリーマンの「古代への情熱」に似ているが、嘘や誇張のない良心的な自伝。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?