30年日本史01024【南北朝前期】勝利者はどちらか
さて、ここまでで「観応の擾乱」第一幕が終わりました。ここから僅か5ヶ月間、束の間の平和が訪れるわけですが、どういうわけか、この戦間期について太平記はほとんど語ってくれません。やむなく他の文献をもとに歴史を紡いでいきます。
師直・師泰は殺されたものの、直義には兄を殺すつもりは一切なかったようです。
そもそも打出浜の戦いにおいても、直義は八幡の拠点から一切動いていません。兵庫県芦屋市が戦場なのに、京都府八幡市にいたまま動かなかったわけですから、積極的に戦おうという姿勢がみられません。兄と戦うのを嫌がっていたのかもしれません。
和睦が成立したことから、尊氏も直義も京に向かいます。このとき、八幡の陣地を出発する直前の直義に悲劇が襲います。正平6/観応2/貞和7(1351)年2月25日、直義にとって唯一の実子であった如意丸(にょいまる:1347~1351)が3歳半で病没したのです。直義が戦に消極的だったのは、息子の病気が原因だったのかもしれません。
尊氏は27日に、直義は28日に、それぞれ京に到着しました。早速再会したものの、これまでの確執があったせいか、はたまた直義が息子の死で落ち込んでいたせいか、互いに言葉少なで気詰まりな様子だったといいます。
さて、3月2日にいよいよ今後の政権運営に関する議論の場が持たれました。このときの様子は、洞院公賢の日記「園太暦」に詳しく載っています。いろいろなことが決められたのですが、まず以下の2点から説明していきましょう。
①尊氏は自らに従った武士42人に恩賞を出すべき旨を主張し、認められた。
いやはや、一体どういうことなのでしょう。尊氏は直義に敗北したはずなのに、なんと尊氏側に味方していた42名に恩賞が与えられたというのです。
②尊氏は高兄弟を処刑した上杉能憲の死刑を主張したが、結局流罪となった。
さらに尊氏が上杉能憲を処刑しようとし、直義が交渉してどうにか流罪に減刑されたというのです。
いずれの点についても、尊氏はあたかも勝利者のように振る舞っており、それを許容する直義もどうかしています。
どうやら直義はあくまで高師直・師泰を排斥しようとしただけで、尊氏にとって代わろうという気持ちはなかったのでしょう。それにしても、戦で勝った割に弱気過ぎます。
一点分かることは、尊氏は和睦条件に反して高師直・師泰が殺されたことにひどく立腹していたことです。尊氏はもちろん直義を愛していたのでしょうが、師直も大事にしていたのでしょうね。
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